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2009年06月24日

「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」での専門報告会の発言

朝鮮民主主義人民共和国の経済改革の現状と課題
                        
          日本環日本海経済研究所調査研究部主任研究員(ERINA)  三村光弘

1. 北朝鮮の経済改革推進過程(1998~2005年)
1998年憲法改正と経済管理機構の変化
北朝鮮の経済改革の開始が、経済管理システムを大幅に改編する制度的措置がとられた時であるとするならば、この憲法改正がその時となる。1998年の憲法改正の要点は、国家主席・中央人民委員会制度の廃止による国家機構の大幅な改編、経済における内閣制の採用にともなう中央の管理の強化 、経済や外交に関する規定に過去6年間の成果を反映させたことである。

国営企業のリストラと経済計画作成方法の変化
1998年の憲法改正後、北朝鮮における経済改革は、まず国営企業のリストラ、経済計画作成方法の変化からはじまり、その後企業管理方法の変化、価格や給与の見直しへとつながっていった。
 国営企業のリストラは1999年初めから2001年にかけて進行した。中川雅彦(2005)はこのリストラが、「動いている企業をつぶすことよりも、能力のある企業を選んで動かしていくことに重点があったと見られる」と分析している。
 朴在勲(2005)によれば、リストラの目標は、生産の専門化であった。企業ごとに生産を専門化することや、部門別あるいは品種別の専門生産を行う企業を創設することである。北朝鮮式企業連合である連合企業所もこの原則に従って不合理な企業は合理化し再構築するということになった。
 経済計画作成方法における変化については、朴在勲(2005)によれば、従来は3段階 の経済計画策定プロセスを踏んでいたが、まず計画化工程の簡素化を行った 。同時に、戦略的意義をもつ指標(電力、石炭、自動車など)以外の計画策定権限が地方・下部機関へと移譲された。また、従来からある量的指標に加えて、質的指標、貨幣的指標の計画化を重視する方向への変更が行われた 。

経済改革の深化と「実利社会主義」の誕生
 北朝鮮の経済改革の深化を象徴しているのが、「実利」というキーワードである。新年共同社説を見ると、2001年頃から、「実利」という言葉が経済管理の改善と関連して使われはじめるようになる。2001年10月3日には、金正日総書記は「強盛大国建設の要求に即した社会主義経済管理の改善強化について」という講演を行った 。この講演の趣旨は、(1)社会主義原則を固守しつつ、実利最大化を実現することが主軸で、(2)計画経済に一層現実性と科学性を持たせる、(3)分権的に裁量権を与え、経済全般の生産性と経済主体のモチベーションを向上させる、(4)経済システムに柔軟な対応性を持たせる、(5)プラスのモチベーションだけでなく、マイナスのモチベーションも導入する、である。
 北朝鮮の研究者は李幸浩(2007)でこのような動きを「新世紀が始まった最初の年に、社会主義強盛大国建設の要求に応じて社会主義経済管理を改善し、完成させるなかで、社会主義原則を確固として守りつつ、最も大きい実利を得られる経済管理方法を見つけ出すことを最も重要な原則に掲げ、その実現に努力している。」と位置づけている。

企業管理における変化
 1998~99年ころは経済改革の対象が、国営企業の経営活動の外形に関わる部分であったとすれば、2001~03年ころの変化は、企業経営の内部における変化が大きい。変化の具体的な形としては、まず、不足した物資を国営企業同士が融通する通路としての「社会主義物資交流市場」の運営と、独立採算制の見直し、特に質的指標の重視と相対的な経営自主権の増大があげられる。新たな独立採算制の特徴は、朴在勲(2005)によれば、企業の採算を計るための新しい指標が設定されたことである。これは「稼ぎ高指標」というものである。ここで、「稼ぎ高」とは、企業の総販売収入より生活費(賃金)を除いた販売実績原価を向上したものであり、新たに創造された所得部分であるとされる。

稼ぎ高=企業総販売収入—{販売実績原価-(生活費)}

このような国益企業の経営環境の変化の結果、社会の利益よりも企業の利益を優先することを批判して「機関本位主義」という言葉がしばしば用いられるようになっていく。

経済管理改善措置
 2002年7月に北朝鮮は、「経済管理改善措置」と称する物価と賃金の大幅な改革措置を行った。この措置の主要な内容は、(1)コメやトウモロコシなどの穀物の配給に伴う逆ざや廃止、(2)国家による恵沢(無料で提供されるもの)の削減、(3)価格の上昇に応じて給与を調整であった。その他、これまで料金を支払うことが少なかった住宅使用料(家賃)や電気料、水道料なども徴収されるようになった。教育や医療は依然無料のまま据え置かれたものの、1980年代後半までの文句を言わなければ最低限の生活は保障されたシステムは制度としても終焉を迎え、社会主義分配原則(能力に応じて働き、労働に応じて分配を受ける)が徹底されることになった。

商品流通における市場メカニズムの部分的導入と所得格差の発生
 商品流通において、地域市場など国営流通網以外のネットワークが誕生してきたが、これらのネットワークでは、個人の経営であったり、所有制こそ国有や協同団体所有ではあるが、国家計画に基づかない商品流通が増加していたりする。
このような市場メカニズムの部分的導入に伴う個人主義的な発想が北朝鮮の社会にどのような影響を与えたかを実証的に分析した研究はまだ存在しないが、筆者が観察した平壌の統一通り市場の販売員(ほとんどが中年女性)たちは2004年には物静かで恥ずかしそうにしており、お客とあまり目を合わせなかったが、2006~07年以降には堂々と相手の目を見てセールストークを行うようになっていた。その態度は中国や韓国の市場の女性たちとあまり変わらなくなっていた。

表 1 平壌市「統一通り市場」の商品価格

(出所)筆者による現地調査

表 1を見ると、北朝鮮の市場での商品価格は爆発的ではないにせよ、かなりの速度で上昇していることがわかる。他方、2002年7月の「経済管理改善措置」で定められた生活費(給与)の規定は、筆者の北朝鮮の経済学者に対するインタビューによれば現在も変化がない。そのため、規定の給料では市場での買い物はほぼできないものと考えざるを得ない。しかし平壌市の「統一通り市場」には、2008年9月現在、推定5,000人以上の買い物客がいる。かなり多くの人々が、2002年7月に規定された給与基準以上の収入をもっていると仮定しない限り、統一通り市場に商品と人があふれている状況を説明することはできない。

2. 社会主義計画経済原則の強調と経済統制の強化(2006年~)
引き締め路線への突入
北朝鮮の経済改革の進化に伴う各種の措置とそれに伴う社会の変動は、2006年ころから、「実利主義」よりも社会主義計画経済原則や集団主義原則の強調という形で経済政策を変化させ始めた。

表 2  2005~09年の新年共同社説の内容一覧

(出所)『朝鮮中央通信』報道より筆者作成

 例えば、2006年に国営企業の評価基準である「稼ぎ高指標」が「純所得」指標に変更された。その理由は、朝鮮の複数の経済学者によれば、企業所が勤労者の労働意欲を引き出すために、過度に生活費(賃金)を引き上げる偏向などが起こったためだとされる。

純所得=販売収入-原価(原価の内容は減価償却費+原材料費+生活費)

表 2は、2005~09年までの新年共同社説の主要内容をまとめたものであるが、2006年を境にして、社会主義計画経済原則や集団主義原則が強調され、近年では経済面では自力更生の強調、政治面では党の指導力強化が強調されていることがわかる。
 2007年11月9日付の韓国の『朝鮮日報』のオンライン版記事によれば、朝鮮で中年女性(20~40代)の市場の商行為が禁止され、混乱が生まれているという人権団体機関紙の記事が紹介されていた。その主な理由は、商売を理由にして、人民班(住民末端組織)を通じた教育事業や各種の無給動員事業を抜け出す事例が日常化しているためであるとのことである。
その他、2008年に筆者が北朝鮮の経済学者にインタビューしたところ、北朝鮮では国営企業所で生産した商品(軽工業製品など)を市場で販売することを一切禁止し、国営商業網で販売することを原則としたそうである。このような経済政策を実行に移した場合、国民に対して食糧と生活必需品を国家が充分に保障できなければ国民の不満がかなり高まることにつながる。国家統制の強化は、国家による国民生活の保障があってこそ成り立つのであり、そのような環境を北朝鮮が作り出せるのかどうかが問われている。

非国有セクターの増加と国家財政不足
 最近、北朝鮮で出版されている学術雑誌に掲載されている論文を見ると、現在の北朝鮮経済が抱えている問題が浮き彫りになっている。そこで論じられているのは、国家財政不足、経済の市場化の抑制、重工業優先の開発戦略正当化、国営企業の経営自主権の統制強化、食糧管理の強化国営企業の経営自主権の積極的利用などである。
 ここから、現在の北朝鮮経済には、これまで行われてきた経済改革措置は制度的には基本的に残存しており、自然発生的に生じた市場的要素ないしは非国営セクターは、拡大の方向にあるものの、政策的にはそれを引き締める方向性をとろうとしていることがわかる。
経済的には、国家財政に余裕がなく、それが重工業をはじめとする国家経済計画の遂行の足を引っ張っており、貨幣が非国営セクター内で滞留しているためであると分析している論文が多い。このような状況を改善するためには、国営企業に対する経営自主権の統制強化や「下からの市場化」によって国家の統制を離れた部門を再び国家の統制下におくことを必要だと主張する論文がある。
これは、重工業部門を中心とする製造業の生産正常化を成し遂げるためには、膨大な投資が必要とされるが、その投資資金を作るためには、非国営部門で取引されている消費財や生産財を国家統制の下におき、国営商業網による取引に切り替えることにより、現在非国営部門に退蔵されている貨幣を国家の手中に収める必要があると考えているからである。
政治的な面から見れば、前述したような利益優先の個人主義の拡散や国営企業の「機関本位主義」に見られるようなミクロレベルでの経済利益の追求によるによる支配イデオロギーの変容、瓦解を警戒している、と分析することできるだろう。朴泂重(2008)はこれを張成沢の復権と関連づけて指摘している 。

3. 現在の経済政策の方向性とその限界
現在の経済政策の方向性
 これまで述べてきたように、北朝鮮の経済政策の方向性は2006年以降、非国営部門の成長もある程度許容した全般的な経済の正常化から、国家の統制を強化しつつ、重点部門の重工業に投資を集中していく戦略をとろうとしているように見える。重工業の復活は伝統的な経済政策への回帰の色彩が濃い。同時に金属工業、石炭工業、電力工業、鉄道運輸の4つの優先整備対象相互間の連携がある程度取れるようになってきたことも関連していると思われる。政治的な面では、個人主義の拡散による支配イデオロギーの相対化を恐れているようである。
 北朝鮮は日米との関係が改善するにはかなりの時間が必要だと見て、図 1のようにこれまでは中国と韓国からの経済支援を重視すると同時に、欧州や東南アジア諸国との経済関係を開拓しようとしてきた。しかし、米国によるテロ支援国家指定は解除されたものの核問題での進展が限られていることから、欧州との経済関係拡大も水面下での動きはあるものの、大規模投資を受け入れることは難しい状況にある。
南北関係は2008年2月の李明博政権の登場以降、悪化の一途をたどっている。図 2のように、2008年末現在の南北交易額は全体としては増加しているが、盧武鉉政権の終わりまで韓国政府が北朝鮮に対して支援していたコメや化学肥料、軽工業原材料などは提供されていない。

図 1 2007年の北朝鮮の主要貿易相手国とそのシェア

(出所)KOTRA

図 2 南北交易額の推移(韓国ベース)

(出所)韓国・統一省『南北交流協力動向』2008年12月号

 このような韓国との関係悪化の一部は、北朝鮮の対中貿易の増加という形で現れている。図 3は北朝鮮の対中貿易額の推移であるが、2008年の貿易額は前年に比べて大幅に増加した。特に中国からの輸入が増加し、貿易赤字の額が約12.8億ドルとなっている。

図 3 北朝鮮の対中貿易額の推移

(出所)KOTRA、World Trade Atlas

4. 今後の北朝鮮経済の見通し
 北朝鮮の各種報道では2012年に「強盛大国の大門を開く」とのスローガンで経済建設が進められているように報じられている。北朝鮮はこのような復興案に対する自信があるように見えるが、2012年までに国内の技術と原料だけで重工業の拡大再生産を行うところまで生産を回復することは相当難しい。どこからか相当の支援を引き出さなければならないが、現状では中国からの支援しか可能性がない。南北関係が2009年も悪い状況が続けば、北朝鮮経済は北朝鮮指導部の本意ではないにしても本格的に中国への依存を高めて行くであろう。
 北朝鮮の引き締め傾向は、経済的に見れば、非国営部門に退蔵された貨幣を国営経済の中で再度流通させるための努力であると言うことできる。すなわち政治的にはこれまでの経済改革の進んできた道を点検し、そこに潜む体制にとっての脅威を排除しつつ、経済的には国家統制に対する文句が出ない程度にまでは国民生活を安定させ、社会主義計画経済を復活させることができる条件を作り出すことにあると思われる。
 南北関係と米朝関係、日朝関係に質的な変化が訪れない限り、2012年までは社会主義計画経済原則に基づいた経済復興案が試みられる可能性が高いと思われる。しかし、北朝鮮が現在国是として掲げている「強盛大国」は経済問題が解決しなければ実現できない。米国と周辺諸国が北朝鮮が経済建設を重視し、「ふつうの発展途上国」になり、経済成長路線を歩むように誘導することが北東アジアの冷戦構造を取り除き、ひいては北朝鮮の真の変化を誘導し、この地域に平和と中長期的な繁栄をもたらすことにつながる。北朝鮮の現状を変えるためには、圧迫ではなく共感と連帯をもってあたらなくてはならない。

【参考文献】
日本語文献
金正日(1990)「人民生活をさらに向上させるために」『月刊朝鮮資料』1990年2月号、pp.10-23
木村光彦(1999)『北朝鮮の経済』、創文社
張進宇(2007)「朝鮮における実利重視の経済管理の改善」、『ERINA REPORT』vol. 76(2007.7)、pp. 54-57
中川雅彦(2005)「経済現状と経済改革」中川雅彦編『金正日の経済改革』、アジア経済研究所、2005、pp. 1-14
朴在勲(2005)「工業部門と国家予算に見る経済再建の動き」中川雅彦編『金正日の経済改革』、アジア経済研究所、2005、pp. 29-52
三村光弘(1999)「朝鮮民主主義人民共和国の新経済戦略と1998年憲法改正」『阪大法学』第49巻1号pp. 219-243
三村光弘(2000)「朝鮮民主主義人民共和国1998年憲法改正と人民経済計画法」『環日本海研究』第6号、pp. 44-54
文浩一(2004)「朝鮮民主主義人民共和国の経済改革―実利主義への転換と経済管理方法の改善―」『アジア経済』第45巻7号、pp. 45-62
李基成(2006)「21世紀初頭の朝鮮の経済建設環境」、『ERINA REPORT』vol. 72(2006.11)、pp. 18-22
李錦華(2007)「朝鮮における情報技術の発展とその利用」、『ERINA REPORT』vol. 74(2007.3)、pp. 10-12
アジア経済研究所『アジア動向年報』各号
『月刊朝鮮資料』各号

朝鮮語(韓国語)文献
韓国銀行『北韓のGNI推計』各年度版(ただし、2006年版は発行されず)
韓国貿易協会(2007)『2006年1~12月南北交易動向』、韓国貿易協会
大韓貿易投資振興公社(KOTRA)『北韓の対外貿易動向』各年度版
統一省『統一白書』各年度版
『経済研究』各号
『金日成総合大学学報』(哲学・経済学)各号
朴泂重(2008)『2006年以来北朝鮮の保守的対内政策と張成沢:2009年の北朝鮮を展望して』統一研究院オンラインシリーズCO 2008-72 [www.kinu.or.kr/2008/1223/co08-72.pdf]
  


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2009年06月24日

「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」での吉田進様の発言

日中区域間協力と黒龍江省の対日経済·貿易協力戦略の一層強化について

                      財団法人環日本海経済研究所理事長    吉田 進


2008年9月に発生した金融危機は、各国が自国の経済構造の問題点を明確にし、その解決を図る契機を作り出した。
世界的な規模での金融協議の場が、これまでの7カ国首脳会議(G7)から20カ国・地域首脳会議(G20)に移行した。
中国は、輸出による経済成長から国内需要を満たす経済構造への切り替えを行った。4兆元の国内需要喚起のための資金投入、特に家電製品の農村への販売は、国内の国民収入の拡大(一人当たりGDP=3,000ドルの達成)と呼応し、三農問題の解決に向けても寄与した。
現在、中国経済に対する地域寄与度は、従来の沿海地方から内陸部へ移っている。
中国の東北地方では、国内的には遼寧省と並んで黒龍江省、吉林省が重要視され、対外経済関係では、国境を接しているロシアばかりでなく、北東アジア構成国(特に日本と韓国)との協力発展に重点が移されている。
1. 日中貿易の実績と傾向
日中貿易は、輸出入総額が2002年に、日本から中国への輸出が2005年に、中国からの日本への輸入が2007年にそれぞれ1,000億ドルを超過した。
日本の輸入に占める中国の比重は、2002年に18.3%になり、米国を追い越して第1位に、輸出入総額では2007年に17.7%を占め第1位になった。
2. 黒龍江省の対外貿易、対日貿易
黒龍江省の2007年度の輸出額は122.6億ドル、輸入額は50.4億ドル、合計で173.0億ドル、72.2億ドルの入超であった。
黒龍江省の対日輸出額が省全体の輸出額に占める比重は2.25%(全国は8.38%)、2.8億ドル、輸入額は6.3%(全国は14.01%)、3.2億ドルと、いずれも全国の比率より低い。商品構成によっては、今後、拡大する潜在的な可能性がある。
2007年の外資の投資額(契約ベース)は242件、29.6億ドル、実行ベースは21.7億ドル。2000年に投資額(契約ベース)が10億ドルを超過し、その後も毎年増えている。しかし、残念ながら日本の資本進出は16社とわずかである。
そのうち大企業は、三菱自動車のエンジン工場と森永乳業の2社だけである。
3.今後の展開と課題
今後の日本との経済・貿易関係を発展させるためには、黒龍江省との関係強化を求めている日本の諸機関・関係者との連携を強化する必要がある。
それにはまず、日中東北開発協会との協力が大切である。同協会は、これまで、大連開発区の日本工業団地の立ち上げ、東北3省・内モンゴル自治区との日中経済協力会議の組織・開催、中国東北地方からの代表団の受け入れ、各省の商談会への協力を行ってきた。
次に友好県・道との協力(新潟県、北海道)である。新潟県は黒龍江省と友好県省提携をてすでに26年になる。新潟市とハルビン市は友好都市の提携をして30周年を迎える。
行政組織間での人事交流、社会・文化交流では一定の歴史があり、経済協力分野でも三江平原の龍頭橋ダムの建設、ハルビン市のごみ焼却炉、廃水処理などではお互いの協力関係ができあがっている。
黒龍江省から日本に留学あるいは就職している人たちの間で、文化交流を進めるNPOが組織されつつあり、そことの連携・協力も大切である。
(1) 対日輸出入商品の分析と拡大策
黒龍江省の輸出産品の研究を進め、対日輸出拡大策を検討する。農産物、石炭、加工木材・家具、機械部品などが対象となる。
(2) 企業誘致
日本の企業誘致には、日本の三大銀行との協力が不可欠である。すでに進出している企業が良い業績を上げ、他の企業を誘致する原動力になる必要がある。
黒龍江省には旧国営企業が多いので、日本の企業との合弁の場合には、事前に旧国営企業の負債処理を行わなければならない。
(3) 農業
① 日本では、無農薬・有機肥料栽培野菜の供給が歓迎される。
問題は、後述する輸送ルートと検査システムの確立にある。
② 新しい枠内でのメイズ(とうもろこし)、大豆などの供給の可能性
従来の生産物は輸出禁止となっている。その枠外で契約生産はできないものか。
③ 農場の共同経営の可能性
現在、日本では農業株式会社の設立の動きがあり、新しい可能性が生まれてきている。日本の個人農には資金がなく、農業協同組合は製品の販売ルートに特化しているので、生産分野での協力は難しい。
④ 食品加工業との協力
例えば、米粉、真空パック製品などの輸入が可能である。
⑤ 新潟との協力
三江平原を巡る協力を基盤に、新たな農業協力を図る。
(4) 環境対策
新潟市とハルビン市とのこれまでの協力には、廃水処理、ごみ処理(焼却炉)などがある。新しい課題として小規模発電、廃水処理、牛糞の処理などがある。
(5) 輸送回廊の開拓
黒龍江省は綏芬河-ウラジオストク・ナホトカ港ルートの開発と定着にかなりの力を入れてきたが、日本側では束草-新潟-トロイツァの航路を開設するため努力してきた。この航路が今年の6月にも就航する予定で、綏芬河-トロイツァ港のコンテナの自動車輸送、そして将来的には、専用列車輸送を組織することが大切である。まずは、農産品、鶏肉、木材製品、大理石、稲ワラなどの輸送が考えられる。この輸送ルートの確立には、ロシアのPrimoravtotrans、Berkutなどが協力してくれるであろう。
(6) ロシア、中国との協力
黒龍江省の地理的優位性を生かして、ロシア、日本との3カ国合弁会社の設立を考えていきたい。そこで扱うのは、加工業、例えば木材加工が望ましい。
インフラプロジェクトでは、ブラゴベシチェンスク-黒河の大橋建設への協力などが考えられる。日本の四国-本州大橋の経験を紹介し、資材の供給などができる。これに国際協力銀行の融資を結合させるのが望ましい。
電力供給の可能性も検討すべきである。ロシアのブレア水力発電所の余剰電力、建設計画中の第2ブレア水力発電所、潮力発電所などの電力を、将来、中国や中国・北朝鮮経由で韓国に供給する可能性は十分ある。
そのために必要な技術・製品を、プロジェクト・ファイナンスにより輸出する。いずれも北東アジア経済発展のためのインフラ構築に寄与する。
(7) 学術交流
ERINAでは社会科学院から定期的に研究員受け入れを行っている。また、新潟にはハルビン工科大学、ハルビン学院、黒龍江大学などとの強い協力関係がある。今後もその発展のため双方が努力することが望まれる。
(8) 人材交流・観光
これまで日本に留学(CIRなど行政の短期交流を含む)した人々の活用や、黒龍江省と新潟の有力な観光・旅行会社の交流強化、特に高校生の修学旅行での交流などがさしあたっての課題である。
4.今後の改善すべき点
以上を実行する中で改善すべき点は次のとおりである。
 日本における発信基地:黒龍江省事務所の設置
 日本における黒龍江省の紹介が多省と比べて少ないこと
 企業進出した日本企業に対する協力機関:24時間クレーム受付事務所の設置
中国に進出した企業は、原料の現地調達、輸送、労務、税金問題などの様々な問題で苦労をしている。これらの問題解決のためにヒントを与え、適切な機関・企業を紹介する役割を担う組織が必要とされる。
また、次の点についても、継続審議の場を設けるべく協議したいと考える。
 三江平原の協力について、黒龍江省水利庁、黒龍江省環境保護庁、黒龍江省農業委員会の合同協議を行い、新潟との協力の方向を明確にする。
 日中経済協力会議は、現在、5年に1度ハルビンで開催されるのみなので、もう少し頻繁に黒龍江省で協力会議を開く必要がある。国際経済貿易商談会開催の際に小規模の日中協力会議を開くことも考えられる。

  


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2009年06月24日

「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」での坂下明彦様の発言

原料農産物基地から地域ブランド形成へ
             -北海道と黒竜江省-
      
           北海道大学大学院農学研究院教授・日本農業経済学会副会長 坂下明彦


 1.原料農産物基地としての北海道農業の発展
 北海道は、日本の食料基地であり、生産基盤も府県とは大きく異なっている。耕地面積は116万ha(全国463万haの25%)であり、農家1戸当たり面積も19ha(全国は1.4ha)と規模が大きい。全国シェアーは農業産出額で12%、カロリーベースで22%を占める。
 農村風景をみても、大規模に区画化させた圃場に大型の作業機械が走り回り、農業協同組合(以下、農協)による集出荷施設や貯蔵倉庫群が林立し、加工メーカーの工場も各地に配置されている。また、稲作地帯、畑作地帯、酪農地帯が、それぞれの大河川流域や大規模平野に分布して、独自に発展をみせていることも特徴である。
 農業産出額は、およそ1兆円(770億元)であり、耕種部門と畜産部門がそれぞれ50%である。耕種部門は、稲作と畑作、さらに野菜作に区分されるが、これらの多くは北海道外に移出されている。米は近年品質の向上が著しいが、単品で消費される割合は小さく、良質米に混合される増量材として利用されている。畑作物は全国の生産における割合がきわめて高く、甜菜、馬鈴薯、小麦、豆類の4作目から構成される。甜菜、馬鈴薯は、北海道内の加工メーカー向けの砂糖・工業用澱粉原料であり、小麦は主に全国の大手製粉メーカーの原料として出荷されている。豆類も加工製品の原料として移出されている。
 畜産部門は、酪農の割合が圧倒的に多く、牧草やサイレージ用トウモロコシを生産し、給与する粗飼料基盤型の酪農であるが、成分換算で飼料の自給率は50%程度まで減少している。製品は地元の乳業メーカーに出荷され、主にバターと脱脂粉乳に加工され、飲用乳としての出荷は限定されている。
 野菜類の生産は、米、甜菜、馬鈴薯、小麦、豆類につぐ第5の作物として注目され、玉葱、人参、食用馬鈴薯に限定されていた品目は大幅に拡大している。これらは、冷蔵流通技術の確立により移出量が拡大しているが、気候条件から夏秋作物に限定されるという限界を有している。
 この間の生産・調製加工・貯蔵技術の発展により、製品の質の向上には画期的なものがあるが、原料農産物基地という性格を払拭するには至っておらず、付加価値生産という点で大きな限界を有している。日本全体の農業産出額は8.6兆円(6,100億元)、食品工業出荷額は32兆円(2.3兆元)であるが、北海道のそれぞれに占める割合は、12%、6%であり、砂糖・澱粉・乳業という大企業を有するにもかかわらず、食品工業の裾野は非常に狭いものがあるのである。日本の食料最終消費は80兆円(5.7兆元)といわれており、北海道の農業生産は加工部門・消費部門に多くの付加価値を奪われている状況にあるといえる。

 2.産業組織としての農業協同組合の位置
 以上の、原料農産物基地の形成においては、農協の存在が欠かせなかった。北海道の系統農協をしばしば「北連王国」と称するが、町村段階の単位農協を補完する北連(北海道農協経済事業連合会)や地域農協連合会の工場群が民間メーカーと併存している。これは、北海道の農産物が貯蔵性のある穀物や原料農産物に特化しており、農協は早くから北海道庁の後押しもあって加工部門に進出を果たしてきたからである。北連の1年間の事業高は1.5兆円(1,000億元)であるが、全国組織である全農(農畜産物の販売や生産資材・生活物資ACOOPの供給を行う経済事業の連合会)のそれが5兆円(3,600億元)であることを考えるとその巨大さがわかるであろう。北連は、加工メーカーとの価格交渉の窓口であり、自らも加工部門を持つなど、農業関連産業との関連を見る際に欠かせない存在であり、また、近年増加をみせている野菜の府県輸送・販売においても市場開拓や価格情報の提供において大きな役割をもっている。
 単位農協についても、農協の各種施設運営のための作目別の生産者の組織化、農家の高齢化に対応した法人化等の組織化、農業生産過程への農協そのものの参入など地域農業支援のシステムが形成されつつある。

 3.原料農産物基地から地域ブランド形成へ
 このように、北海道農業は1世紀余りにわたる努力の結果として、高度な発展を見せてきたと言うことができる。しかしながら、経済のグローバル化による農業生産の広域的な分業化の広がりのなかで、新たなステップアップをめざす時期に立ち至っている。
 この間、北海道農業は第5の作目としてより収益性の高い野菜・花卉などの青果物生産への傾斜を強めてきた。それは大都市部卸売市場向けの移出振興であり、コールドチェーンに対応した物流施設整備とそれに対応した産地形成の過程であった。それは、個別品目を対象としたブランド形成を主眼としてきた。しかし、国内外の農産物・食品の安全性に対する消費者の信用の失墜の中で、食の安全のみならず「安心」の確保がマーケティングにおいても大きな課題となっている。そうした中で、農村と消費者との直接的な関係性の構築が求められている。すなわち、農業・農村の生産文化をトータルなものとして直接的に消費者に発信するシステムの構築である。それを一言で表すと「地域ブランド」の形成に他ならない。慣行型農業生産からの脱却(有機農業)や地場型の農産加工振興をはかり、それを様々なチャネルで消費者に発信すること、生産を基礎にグリーンツーリズムなどを通じた農村文化と都市部との交流をはかり、地域農村の取り組みがトータルとして消費者に安心を与えること、この総体が地域ブランド形成に他ならない。これは、将来的には海を越えた地域間交流へと拡大していくと考えられる。
 黒竜江省も中国の原料農産物基地として、北海道とは比べられないような大きな地位を確実なものとしてきた。しかし、WTO体制のなかで農業の高付加価値化、食の安全安心問題が大きな課題となっていることは同様である。農業産業化、緑色食品の推進など政策的な進展は見られるが、現在進められている農村建設運動の中で、農村のトータルな価値を打ち出す「地域ブランド」戦略が同様に求められているといえよう。
 北海道大学では、新たに農村エクステンション機能の充実を図り、モデル的な実践を通じて「地域ブランド」認証を行う準備に取りかかっている。この分野での大学間連携を期待するものである。

  


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2009年06月24日

「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」での朴紅様の発言

中国三江平原の水田開発と稲作経営に関する研究

                        -X国有農場第17生産隊の事例-

                        朴 紅・張錦女・笪志剛・坂下明彦
 

はじめに
 本論は、アムール川、松花江とウスリー江が合流する大湿地帯である中国三江平原における水田開発とそのもとでの稲作経営の展開を規模拡大過程と機械化の進展に焦点をあてて特徴づけを行うことを課題としている。
 三江平原の水田開発は、WTO農業交渉の行方と関連してSBS米の輸出基地として1990年代末から関心が寄せられ、近年では国内米価の下落のなかでSBS米の位置づけが後退し、目立った研究がみられないのが現状である。しかし、対象地は東アジアのなかでも新興の稲作地帯であり、しかも10ha規模の家族経営としては比較的大規模な稲作経営が分厚く存在しており、この動向を長期的に観察することは東アジア稲作研究にとって意義のあることである。われわれは、1997年から三江平原の拠点都市ジャムス近郊のX農場を対象として継続的な調査を実施してきた。
 2006年夏の調査では、米価下落により稲作面積が急速に縮小した2003年以降の稲作経営の動向把握を意図したが、対象とした生産隊は日本向け輸出米の生産基地に指定され、稲作縮小はわずかであった。そのため、生産隊に即して水田開発過程をより詳細に跡づけるとともに、農家の規模拡大と稲作機械化の進展度を階層別に観察し、稲作経営の到達点を明らかにすることを課題とした。

 1.対象生産隊の特徴と水田開発過程
 1) 第17生産隊における水田開発の現段階
X農場は、総面積26,760ha、稲作面積10,987haの中規模国有農場である(2006年)。農場内には下部組織として36の生産隊が存在しており、東南部に位置する第17生産隊は農家戸数65戸、耕地面積662.9haであり、平均的な規模である。農場の本格的な水利開発は、1985年からの掘り抜き井戸による灌漑から始まったが、第17生産隊の区域は10年後の1993年からであった。
1990年までは松花江の河川水による自然流下方式の灌漑が主流であったが、1991年から東南部の河川灌漑事業が中止され、ダムは排水対策向けとされた。これは、河川の水量不足により取水が困難となり、雨季に多発する水害対策に用途転換されたためである。
農場の水利開発計画の中で、1992年以降は井戸灌漑開発地区に指定され、1992年と93年には生産隊による井戸の一斉掘削が行われた。
井戸建設に伴い、水田化が急速に進展し、1994年には全面積673.7haのうち552.6ha(水はり面積は501.8ha)が水田化された。残りの121.1ha(11~13号圃場)は河川沿いの条件不利地であり、畑地のまま周辺農村の農家に貸し付けられている。そのため、第17生産隊の土地利用は1994年から稲作に特化している。
農家戸数はすでに述べたように65戸であり、水田1戸当たりの面積は8.6haである。井戸数は70であり、1井戸の灌漑面積は7.9haであることから、平均しておよそ1戸1井戸となっている。経営規模別の農家数は後に詳しくみるが、5ha未満層が9戸、5~7.5ha層が19戸、7.5~10ha層が18戸、10~12.5ha層が11戸、12.5~15ha層が4戸、15ha以上層が4戸となっている。井戸灌漑であることに規定されて井戸の灌漑能力に対応した5~10ha層が37戸と57%を占めるが、零細規模層や大規模層も存在している。65戸農家のうち、農場の職工は36人(初代の職工が33人、2代目の職工が3人)であり、残りはのちに述べる招聘農家である。
また、第17生産隊は2003年より米の輸出企業であるXM公司に生産基地として指定され、9割以上の面積が契約栽培となっている。生産過程においては、稲の品種はもちろん、肥料、農薬などの使用について全てXM公司の指示を受けている。
生産隊の役割は、1999年の「両費自理」政策の実施を境に大きく変化している。「両費自理」とは、生産と生活の両方に関わる費用は農家が自弁するということである。これにより、生産隊は従来まで行ってきた生産資材の農家庭先への搬送サービスや、畑作時代の輪作のための作付け調整等の機能が無くなり、単なる農場の政策・命令の伝達機関と諸費用の代理徴収機関となっている。

2)水田開発の史的展開と特徴
以下では、農家のケーススタディを含め水田開発の史的展開を明らかにしておこう。第17生産隊の水田開発の歴史は1930年代にまで遡る。かつてここは「満蒙開拓団」の所在地であり、大規模水田開発が行われ、1940年代までは稲作単作の水田地域であった。現在でも当時の開拓団により作られた水路が利用されている。その後、開拓団の撤退によって水田の大半は荒廃地となった。解放後の1952年にこの地域には鶴立河農場(服役囚改造農場)が設立され、残された水田と荒廃化していた水田の一部を復田し、当時としては珍しい水田農場を作り上げた。文化大革命期の1968年には、知識青年がこの農場に下放され、服役囚は他の地域に転移させられた。知識青年は稲作の栽培技術を持たないため、水田は徐々に畑に転換されていった。1979年に鶴立河農場の一部がX農場に合併され(12,13,14,17,22,34,35隊)、鶴立河農場第5生産隊第1作業区が現在のX農場第17生産隊となっている。
1982年には国営農場においても生産請負制が実施されることになる。この時点での職工農家戸数は86戸であり、耕地面積は483.1haであった。うち、畑が400haであり、水田は83.1haに過ぎなかった。稲作については、12戸の職工に原則として1戸当たり2haを配分し、残りの面積については申し出に応じて自由に請け負うことができた。
水田開発は1985年からの復田の奨励期と1993年の計画的な全面水田化の時期に区分される。その際、注目されるのは「異地開発」とよばれる稲作の技術をもった農家の導入であり、第17生産隊では1989年から積極的に招聘農家(「水稲引進戸」)を導入した。初年度は6戸を導入し、以降毎年3~5戸導入したが、定着するようになったのは1990年代の半ば以降であり、2001年からは完全に中止した。現在の17隊の農家65戸のうち、職工は22戸に留まり、残りの43戸が招聘農家である。
 1985年からの「復田」期においては、栽培技術、品種問題、コメ価格の低迷等の要因により水田の増加は限定的であった。調査事例では、3戸でこの時期の水田開発がみられた。既存農家の№2のケースでは、1985年に4戸の共同により15haを請け負った。当時は小麦畑であったが、うち10haを4戸で開田し、1戸当たり面積は2.5haであった。このケースは成功例である。招聘農家では、№1のケースがある。これについては、後に詳しく述べるが、1989年に6戸の水稲「引進戸」として入植したが、翌90年には2戸が、91年にも2戸が帰郷し、現在存続しているのは2戸のみである。このように、この時期の開田には困難が伴った。
1993年からの第2段階では水田開発が一気に進み、1994年までの2年間でほぼ全ての面積が「復田」し、全戸が稲作経営を行うようになった。この背景には、米価の回復、土地改良の本格的な取り組み等が上げられる。また、第17生産隊の耕地は地勢が低いため、畑作より稲作の方が水管理面でも容易であることも1つの要因であった。X農場全体では、1985年から水田開発を始めたが、最も地勢の低い生産隊(第22隊)を優先したため、第17生産隊での開発は後回しとなり、およそ10年後に全面的な水田開発を実現できたのである。
水田化に伴い、1993年には共同経営の職工農家の使用権を配分し、完全に個別経営に移行した。93年の「復田」作業は生産隊で一律に行い、その費用は職工農家の個人負担となるが、生産隊を通して農場から融資を受けることができた。融資の期間は1年と3年の2種類であり、返済は収穫後に現金あるいは現物で行うというものであった。1ha当たりの「復田」の必要経費はおよそ1.5万元であるが、その中で最も経費がかかるのは井戸掘削と育苗ハウスである。井戸は1993と94年に、育苗ハウスは96年に一律に設置された。1994年以降は、この2つの設置作業は個別で行われるようになった。また、生産隊の機能は、水田化に伴いかなり縮小し、融資保証も1998年で廃止されている。
「復田」に伴う優遇策として、1年目の任務糧や利費の免除制度があった。畑作からの転換により、従来大規模経営に必要であった大型機械は不要となり、徐々に個別の稲作機械化が進展を見せていくが、当初実施された農場水稲弁公室による機械斡旋や融資などの支援策も廃止された。

 2.農家の流動性と規模拡大過程
 1)農家の流動性と規模変動
 以下では、この過程における農家の定着度と規模変動についてみてみよう。表1は、1994 年から2006年までの各年の農家作付面積一覧から作成したものである。まず、農家戸数は1994年の73戸から2006年には65戸へと8戸減少している。しかし、1994年から06年まで存続している農家は52戸のみであり、21戸が転出し、13戸が転入している。1994年起点の移動率は29%に及んでいる。1994年時点において、すでに招聘農家を多数含んでいるため、既存の職工割合はさらに低く、55.4%に過ぎない。農家の流動性が非常に高い社会であることがわかる。表2によれば、転出は稲作収益が減少した2000年以降、特に農場全体での稲作面積が急減する2003年に集中しており、それに伴っての入れ替え(転入)もあるが、転出に伴う規模拡大がみられるのも一つの特徴である。そこで、つぎに規模階層の変化についてみていこう。
 すでに述べたように、農家の経営規模は、5~10haの中規模層を中心としているが、転出率は5ha未満層で40%と最も高く、小規模層での米価下落の影響が大きいことを示している。他方、転入者は中規模層に集中しており、最大規模でも10~12.5haにとどまっている。これに対し、現在大規模層を構成する19戸のうち6戸がこの期間に規模拡大を行った農家である。このように、米価変動のなかでも、一定の蓄積を有し規模拡大を行う農家が現れてきていることが注目される。
 以下では、調査農家9戸に即して、規模拡大の動きを観察してみよう。

 2) 農家の特徴と規模拡大過程
 調査農家の家族構成(表3)は3世代の5人家族が5戸、2世代の3人・4人家族が4戸である。経営主年齢は30~40歳代である。経営主年齢が若いことが特徴である。また、労働力は総計で25名(男16名、女9名)であり、1戸当たり2~3名であり、20歳代が9名、40歳代が8名、30歳代が4名で、この世代が中心となっている。経営規模と家族労働力保有には相関は見られない。
 調査農家の現在に至る農地移動状況をみると、№6農家を除き、他の農家はすべて規模拡大を行っている。サンプリングは、2006年の経営規模をもとに生産隊内の規模分布に沿って行ったが、№9ならびに№5が2007年に規模拡大を行い、表示していないが、№10(4.1ha)が離農したため、小規模層の割合が減り、階層は連続的なものになっている。
 2006年時点でみると、9haまでの上層農家5戸がすべて規模拡大を行い、そのうち、№1と№2は水田開発が第一期であるが、線で区切ったように、その水田を返還してより条件の良い水田に借り換えし、さらに拡大している。同じ第一期入植の№8は、第一期の条件の悪い水田に留まっていて本格的な規模拡大に乗り遅れている。№9と№5が規模拡大したため、入地時期による序列は壊れ、小規模農家の拡大と離脱により、全ての農家が7ha以上となっている。
 この規模拡大に際しては、農地は農場有(国有)であるため一般農村でみられる地価支払いはみられないが、井戸などの有益費補償のケースが見受けられる。ただし、利費(借地料)水準が高いことから、それと比較すると負担は重くない。むしろ、既存の井戸の更新費や電気ポンプへの転換費用が高まっている。井戸の水深は当初は17m~20mであったが、地下水位の低下に伴い30mとなりつつある。また、電気モーターの設置には、電線架設工事が必要であり、その費用に1万元以上が投資されている(№1、№2)。
 規模拡大のためには転出跡地の存在が前提となるが、すでにみたように農家の流動性は依然として高く、問題は規模拡大に対応した稲作技術、特に機械化・労働力問題への対応がなされているかにある。そこで、以下では稲作機械化とそれを補完する雇用労働力の確保がいかになされているかを、経営規模差にも注意しながら明らかにしていく。
 
3.稲作機械化と階層差
 以上みてきたような規模拡大は、機械化の進展によって支えられたものであった。以下では、2006年の実態調査にもとづいて、作業別の機械化の動向を跡づけておこう。
 まず、耕起・代掻きについては、耕耘機段階が1980年代中期から90年代半ばまでであり、トラクタ化は最上層の№1が1998年に25馬力を導入し、2004年には40馬力を導入している。ほとんどの農家が2005年までに30馬力ないし25馬力のトラクタを導入しており、25馬力クラスは下層での導入が多い。2006年現在では、トラクタを有しないものは№5のみであり、作業委託によって対応している。
 田植え作業については、稲作への転換ないしは稲作農家としての転入時期が機械化を基本的に規定している。水田への転換が積極的に進展する1993年以前の稲作農家は№1、№2、№8のみであり、№1が最も早く1989年に田植機の導入を図っている。この時期が田植機の導入時期であり、それ以前は吉林省などの水田地帯からの出稼ぎ労働力による請負制が一般的であった。しかし、多くの農家が稲作を開始した1990年代前半にはすでに田植機は普及段階にあり、稲作開始後短い期間で田植機が導入されている。吉林省の延辺で開発された安価な6条植え田植機(1万元)の存在が普及を加速したといえる。入植が遅く規模も小さい№5については、無償で親戚に作業委託をしていた。機械化に伴う育苗ハウスは全戸に導入されており、1990年代末に土レンガ壁を利用したものからビニール製のものに転換したが、これには農場融資の存在が大きかったといえる。2000年代に入り、規模拡大に対応した増棟が行われているが、これは自己資金によっている。
 これに対し、収穫過程については手作業による請負制が遅くまで存続し、汎用型コンバインが徐々に導入される2000年代になってコンバインによる作業委託への転換がみられる。請負賃金は1990年初頭においてはha当たり200元程度の水準であったが、2000年代には500元水準となり、小型コンバインの受託料と拮抗するようになる。以降は、コンバインの導入により、それに代替されることになる。17隊では、2.7m刈り幅の大型汎用コンバインが2003年に3台、2006年に2台導入され、1.5mの小型コンバインも13台導入されている。大型コンバインの受託料は700元、小型のそれは500元となっている。調査農家でも、№1と№7が2005年に、№3が2006年に大型コンバインを導入しており、受託も開始している。2006年現在、委託を行っていないのは規模が小さい№5農家のみであり、ここでは家族労働による手刈りが行われている。
 脱穀作業については、受託料が2000年代初頭のha当たり200元から2006年では500元にまで上昇しているが(№4のケース)、コンバインの普及によりその意味を失いつつある。
 三江平原の大規模稲作は当初、田植え、稲刈り作業を多量の請負制出稼ぎ労働力に依拠するかたちで成立したが、トラクタ耕から始まり、マット式田植機の普及、そしてバインダとの併用から4条刈りコンバイン・汎用型コンバインの導入へと展開してきた。第17隊は全体としての稲作展開が1993年からであり、後発性が生かされるかたちで機械化のキャッチアップが行われたということができる。その過程での機械化と経営規模との関係は明瞭であり、上層農家から機械化が進み、下層農家においても一部手刈りを残すのみで機械委託作業へと転換しているということができる。委託作業料金は比較的高く、大型機械の償還費に充てられるケースも多いといえよう。

 おわりに
 以上、生産隊ならびに9戸の農家のヒヤリングをもとに、三江平原における水田開発の歴史とそこで形成されてきた稲作経営の内実について整理を行ってきた。第17生産隊における全面的な水田化は農場における初発のそれと比較すると10年程度後発のものであった。それ以前の水田化ならびに稲作経営は個別農家の努力に負うところが多く、そこで経営を堅持し得たものがその後の規模拡大の先頭を走ることとなる。その際、稲作技術の定着において招聘農家の役割は重要であった。
 2003年をピークとする米価下落は多くの農家転出をもたらしたが、輸出向けの精米会社の生産基地となることでその打撃は緩和され、稲作そのものの後退は起こらなかった。これをひとつの契機として規模拡大が一般化するが、生産隊の生産的機能は低下し、規模拡大も自助努力によって行われたといってよい。
 この規模拡大に対応して、稲作機械化も並進的に進行していく。事例で示したように、それを牽引したのは上層農家の動きであった。その場合、後発的な水田化という条件を生かして規模拡大と機械化が並進的に行われ、一般的にみられた請負労働依存の大規模経営という経路をほとんど持たずに、機械化一貫体系がおよそ半数の農家で確立したというのが対象生産隊の特徴である。1990年代末の稲作経営と比較すると、機械化水準は格段に高度化しており、大規模経営の技術的基礎は強化されていることは明白である。
  


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2009年06月24日

「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」での木下英一様の発言

黒龍江省の投資環境改善と今後の日中経済協力強化に向けて   
            ハルピン華通豊田汽車服務有限公司 董事兼総経理 木下英一


私は当地ハルピン市にてトヨタ車の販売デーラー: ハルピン華通豊田汽車服務有限公司の
総経理を致して居ります木下と申します。  昨年の第1回フォーラムに引続き、今年も
参加させて戴きましたが、発表テーマは昨年同様「今後の日中経済協力関係の一層の強化」です。  先ず最初に簡単に昨年の発表内容を振り返りますと、

1) 最近の物流環境の大幅改善が投資効率を格段に高めた点
当社が開業した11年前には名古屋からハルピンまでのコンテナー輸送日数は約40日。しかし最近ではそれが約12日間程度に短縮され、しかも輸送日数が安定して居る事から
当社の手持ち商品在庫は大幅に削減、投資効率は格段に向上しました。

2) 環境ビジネスでの合作可能性
地球温暖化、CO2削減、排出権取引等等の言葉を聞かない日無い程に、近年世界中で
環境保護に対する意識が高まっています。 汚水処理、発電効率の向上等、現時点で
日本企業が最先端の技術を有している分野も多々有りますが、この様な分野で当地、
黒龍江省に於いて、日中双方が協力関係を築く事が出来れば、大変に素晴らしいことだ
という点を申し上げました。

さて、今年のテーマですが、今年は実際に私自身が直接関わって居ります自動車産業、
特に自動車販売に関し、主に「投資環境の改善要望」と言う観点から二つのテーマを取上
げたいと思います。

1)中古車販売に関わる増値税の件
2000年代に入って中国での自動車販売台数は急増、今年1月以降は米国を抜いて毎月100万台超のペースで新車が売れており、文字通り世界NO.1の市場となりました。  一方自動車保有台数の増加と共に、下取販売が急増中。 即ち現在使用中の車を売って、
新車に乗り替えるユーザーが急激に増えていますが、現行の中国の増値税体系では
「中古車の仲介業者」は2%の増値税が免除。 一方中古車を「自身の名義で販売する
業者」には2%の増値税が課税されます。 
日本を含む欧米先進国では現在既に、中古車の販売台数は新車台数を上回る時代となって居り、当社の目指している所は「より品質の良い中古車をお客様に提供して行く」という方針です。 その為にはある一定の品質保証も付け、お客様に必ず安心して当社の中古車をご購入戴きたいと思っています。 しかし、現在の税制体系では今申し述べました様
に2%の増値税という大きなハンディー・キャップが有り、価格競争上極めて困難です。 

小生の意図する所は、決して中国政府の政策を批判する物ではなく、単に一般消費者の
方々に、より良い商品をご提供したい。 その為には税制上の不具合の再検討をお願い
したい、というものです。

2) 販売デーラー設置拠点の自由化の件
小職の理解では、現在ハルピン市内で新規に正規の4S店デーラーを開業する場合、
ハルピン市政府の政策として、新規開業できる場所は2箇所(机場路 及び 先峰路)
にのみ認められ、他の場所での開業は許可されません。 しかし、これも恐らく一般の
消費者の立場から言えば、車を購入する時は兎も角、その後の定期メンテナンスの毎に
遠く離れたデーラーまで行くのは、大変不便だと感じます。  即ち、デーラーの設置
場所は、もう少し自由に場所を選べる様で有っても、良いのではないかと思います。

この点に関しましては、他の多くの都市でも開業場所を指定して居る事は承知致して居り
ますが、日本ではこの様な地方政府の政策は全く存在しません。 一方開業地域を指定
することから土地価格の高騰等が心配され、投資環境の側面から?
小生は中国各地政府の政策を批判する意図は全く有りませんが、一般消費者の方々の
ご意見も聞かれて、適格なるご判断をされる事を、ご提案申し上げたく。

最後に当社は合弁会社設立の1998年より、当地ハルピン市にて自動車販売の事業を
させて戴き、多くの方々からご愛顧を賜り、安心して事業をさせて戴けることに関し、
黒龍江省政府、ハルピン市政府 或いは 関係各位様に深く感謝を申し上げる次第で有ります。

以上を持ちまして私の発表とさえて戴きます。
  


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2009年06月24日

「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」での松野周治様の発言

世界経済再構築と東北アジア地域協力の意義

                      立命館大学北東アジア研究センター長   松野周治


1. 「グローバル化」と「市場化」による経済成長と不均衡
2. リージョナリズム(地域主義)、地域経済協力の意義
3. 東北アジア地域協力発展の重要性と政府の役割

1. 「グローバル化」と「市場化」による経済成長と不均衡拡大(1979年―2008年)

米国の金融危機が世界全体に波及し、実体経済にまで影響を及ぼしている。この世界経済危機は、「100年に1度の危機」と言われているが、正確ではない。第二次石油危機を克服し、1970年代末以降、約30年間続いた「グローバル化と市場化を通じた世界経済成長」の終焉として、現在の危機を、世界経済の歴史の中に位置づけるべきである。
ベトナムからの撤退を背景にした米国のニューエコノミー、ASEANの地域経済協力機構化、中国の改革開放政策(外資導入とグローバル経済への参入、農村における人民公社解体と都市国有企業の会社化)、旧ソ連・東欧の社会主義解体と市場化、英国サッチャー政権および米国レーガン政権による国有企業や政府サービスの民営化と新自由主義(米英主導の自由化、国際化)の中で、1979年からの30年間、いくつかの景気循環はあったものの、世界経済は平均2.9%(1990年USドル価格で計算)という比較的高い経済成長を実現した。ただし、それはさまざまな不均衡の拡大を伴う経済成長であり(表1参照)、現在の世界金融危機と経済危機を生み出した。
 
【表1】

 1995年と2005年の10年間で世界のGDP(名目USドル表示、表1・A行)は1.5倍化し、一人当たりGDP(同)も1.3倍に増大した。中でも中国の成長は著しく、GDPが3.0倍、一人当たりGDPは2.8倍に増大している。その他、ロシアがそれぞれ1.9倍と2.0倍、米国が1.7倍と 1.5倍、韓国は1.5倍と1.4倍に拡大している。ただ、日本は1995年が急速な円高によりドル表示の数値が膨らんでいたことと、バブル経済崩壊後の低成長の持続により、GDPならびに一人当たりGDPを減少させている。
世界貿易はGDPの増大を上回って拡大している。世界全体の輸出額(名目USドル表示、表1・D行)は同期間にGDP増大の1.4倍である2.1倍の伸びを示し、グローバル経済化による経済成長の一端を示している。輸出増大においても中国はぬきんでており、同期間に5.1倍化している。また、ロシア2.9倍化、韓国2.3倍化、米国1.6倍化とそれぞれ貿易を拡大しており、日本も輸出を1.3倍に増やしている。1997年夏から98年にかけて、東南アジアならびに韓国、香港等はアジア通貨金融危機に見舞われ、実体経済活動の一時的縮小を余儀なくされたが、日本の金融支援、ASEAN自由貿易地域(AFTA)に向けての努力の強化など、地域協力強化と域内自由化の拡大を通じて短期間で危機を克服し、貿易を拡大し、高い経済成長を継続した。
ただし、こうした過程で、各国経済が外国との貿易に依存する度合いは大きく上昇している。世界の輸出額のGDPに対する比率(輸出貿易依存度、表1・I行)は、1995年には16.7%であったが、2005年には23.2%となっている。2005年段階の東北アジア各国の輸出で見た貿易依存度は、韓国36.1%、中国33.5%、ロシア31.9%に達しており、いずれの国も1995年時点から貿易依存度を1.5倍に高めている。世界第2位の経済規模を有する日本でも貿易依存度は1995年の8.4%から、2005年の13.1%に上昇している。なお、ASEAN諸国もアジア通貨金融危機克服の過程で貿易依存度をさらに高めており、2005年の貿易依存度は、マレーシア107.7%(1995年は83.2%)、タイ62.4%(同、33.3%)、インドネシアでも30.9%(同、20.4%)に達している。
 国際分業の拡大は生産力の増大を生み出し、世界経済の成長と人々の生活を豊かにする可能性を拡大する。地域経済統合を拡大するヨーロッパ経済においても貿易依存度は上場しており、ドイツの数値(輸出依存度は1995年の20.8%から2005年の35.1%に約1.5倍に増大)もそのことを示している。ただ、問題は、東アジアならびに東北アジア各国の輸出が、輸入との不均衡を拡大していること、また、域内貿易は拡大しているものの、最終需要を地域外、とりわけ米国に大きく依存する中で輸出を拡大していることである(大木博巳編著『東アジア国際分業の拡大と日本』ジェトロ、2008年、pp.14-15)。こうした問題点は、各国の国際収支不均衡の増大となって現れている。
 GDPに対する経常収支黒字額の比率(表1・J行)は、ロシアで1995年の1.7%から2005年の11.0%へ、中国で0.2%から7.1%へ大きく増大し、日本も2.1%から3.6%に増大している。こうした黒字不均衡のメダルの裏側にあるのは、米国の赤字不均衡であり、GDPに対する経常収支赤字額の比率は1995年の1.5%が2005年には6.4%と4倍以上に増大している。国際収支不均衡のもうひとつの表現(結果)は、不均衡をファイナンスする過程で生じた東北アジア各国の外貨準備高(表1・G行、大部分は米国に対するドル債権)の大幅拡大である。2005年末段階で日本は8,355億ドル(1995年末の1,845億ドルの4.5倍)、中国は8,225億ドル(同0.7億ドルの1.1万倍)、韓国2,103億ドル(同327億ドルの6.4倍)、ロシア1,765億ドル(同149億ドル11.2倍)と巨額の外貨準備を保有している蓄積している。4カ国合計では10年間に1兆8,127億ドル余り増加しており、米国の国際収支赤字をバランスするために、巨額の貸付(資金移動)が4カ国から米国になされていることになる。
 このような巨額の国際収支不均衡は、かつてのように国際金本位制のルールが世界を支配している場合や、現在の管理通貨制の下でも国際通貨発行特権をもつ(自国通貨を国際通貨として通用させることができる)米国以外の国家では、存続不可能である。現在、それを可能としているのは、1970年代末以降、米英主導で進められた金融自由化(規制緩和)とそれを通じて進行した金融グローバル化である。石油・天然ガス等資源輸出に依存するロシアを除き、日本、韓国、中国は米国より金利(公定歩合)を低くすることにより(表1・P行、日本のゼロ金利政策など)、米国への資金移動の環境を整え、また、価値が低下する(石油などの資源価格や金価格等の上昇、欧州共通通貨ユーロの対ドル上昇などがその現われ)米国ドルに対してさらに為替レートを低くする(同・O行)ことにより、米国への輸出を拡大した(なお、両年の比較では中国人民元は対ドル価値を維持している)。
このようにして、輸出拡大を通じた世界経済成長の中で不均衡が蓄積され、また、「解決」されてきたが、その限界が現在の世界経済危機の中で明らかになった。東北アジア、東アジア経済は、国際通貨発行特権を有する米国の過剰消費に輸出を通じて依存し、またその輸出のファイナンス資金を提供してきた。しかし、過剰消費の原点において資金を提供し、最大限の利益を上げてきた米国金融システムが、金融自由化によって可能となったさまざまな手段を通じて分散したはずのリスクから損失をこうむるにいたった。加えて、この間、金融工学等を駆使して開発されたリスク分散(稀釈化)システムが逆にリスク累積(累増)システムとして機能した。米国だけでなく世界の金融機関に巨額の損失をもたらし、世界規模の信用収縮を引き起こし、世界経済を第2次世界大戦後初めてのマイナス成長に陥らせている。30年間続いてきた、グローバル化と市場化を通じた世界経済成長メカニズムの終焉であり、新たな世界経済秩序の構築が求められている。

2. リージョナリズム(地域主義)、地域経済協力の意義

新たな世界経済秩序の構築において、リージョナリズム(地域主義)ならびに地域経済協力の意義が改めて確認されなければならない。グローバル化は、国境を越えるヒト、モノ、カネの移動を自由化し、国内市場と国民経済の制約を打破することを通じて国際分業を発展させ、生産力の増大を生み出し、各国と世界経済を成長、発展させる。ただし、ヒト、モノ、カネの移動の自由化、経済主体や国家、地域間の自由競争は、出発点での力の差が存在するという現実の世界では、力のあるもの(強者)にとって有利なルールである。その結果、グローバル化がもつ格差の拡大、金融利得・投機利得の肥大化など、負の側面を抑制し、グローバル化のメリットを最も適切に生かすことが求められている。それを実現する上で、リージョナリズムとそのもとで導入される中央ならびに地方政府の政策と社会的規制の役割が改めて認識される必要がある。以下のような分野が特に重要である。
リージョナリズムの枠組の下、「地域政策」が展開されるならば、地域内の相対的に発展の遅れた地域へ、発展の進んだ地域からの資源移動が促進される。発展が遅れているということは条件整備を通じて発展する可能性を他地域以上に持っていることを意味しており、地域全体の経済成長を促進するとともに、地域内の格差拡大を抑制し、縮小方向に向かうことを可能にする。
リージョナリズムの有効性が発揮される、もう一つの分野の例として農業をあげることができる。農業は環境保全、地域社会の均衡の取れた発展、社会安定等において重要な役割を演じており、EUの共通農業政策にみられるように、農業の維持・発展を地域協力によって実現することは市場化やグローバル化が内包する地域格差拡大傾向や環境破壊の危険性を抑制し、縮小する上で重要である。
加えて、市場化やグローバル化がもたらす環境破壊を抑制するさまざまな政策の導入において、また、グローバルな市場競争において構造的に不利な地位にある人々や集団の地位を強化するとともに、経済活動や社会活動への参加を保証する各種の社会政策を導入する上でも、リージョナリズムは有効な力を発揮しうる。地球温暖化を抑制するためのCO2排出削減をめぐる国際会議が世界各地からの参加国全体を網羅する合意をめぐって難航しているのと対照的に、EUのように地域レベルでの合意に基づいてCO2削減が着実に進展していることはその一例である。
なお、19世紀後半の日本や1970年代末からの中国など、各国・地域の歴史や現状からも、グローバル化と地域統合・地域協力の両方が同時に進行すること、「地域化」(地域協力の強化)を通じてグローバル化を進めることによって、各国・地域の経済・社会の安定的発展と国際的地域安全保障が実現されることがわかる。
以上のような、リージョナリズムとグローバリズムの均衡的発展において、非常に重要な意味を持つのは、国境の両側の地域間の国際協力、国境をまたぐ国際地域経済圏の樹立である。17世紀後半以降、西欧で開始され、19世紀に世界全体を支配した国民国家システムの下での近代化とは、分断されていた諸地域が国民経済として統合される過程であった。しかし、その過程で、国民国家の周縁地域において新たな分断が発生している(同一民族が異なる国家に編入される場合や、異なる民族や隣接する住民の交流が、国境の設定、関税圏の導入、度量衡の国ごとの統一等によって阻害される場合など)。分断が偏狭なナショナリズムを煽る材料とされ、国境紛争や戦争を引き起こす可能性さえある。こうしたいわば近代化の負の側面を緩和し、そのメリットを享受する上でも、国境周辺地域における国際協力が求められている。

3.東北アジア地域協力発展の重要性と政府の役割

 欧州、北米と比べて遅れていた地域協力や地域共同体形成への動きが、1997年‐98年のアジア通貨経済危機を契機に強化され、チェンマイイニシアチブなどの通貨金融協力、ならびに、2国間FTAやEPA締結、ASEANと中国、日本とのFTA交渉や締結などが進んでいる。また、内容や範囲については必ずしも意見の一致は見られないものの、さまざまな場において「東アジア共同体」という用語が使われ始め、2005年12月には第1回東アジアサミット(首脳会議)が開催された。しかしながら、こうした東アジアにおける地域協力強化の動きを長期的かつ安定的なものとするためには日本、韓国、中国の3国間の協力を基礎とし、ロシアやモンゴル、北朝鮮を含めた東北アジアにおける多角的協力ネットワークの発展が不可欠である。
高成長を続ける東アジアにおいて、東北アジアはさまざまな理由により経済成長が相対的に遅れるとともに、経済社会発展に関するさまざまな課題に直面している。重化学工業分野の大型国有企業が支配的な中国東北部は、上海周辺、広東など、海外輸出向け軽工業の展開が容易であった地域と比べて市場経済体制への適応に多くの年数が必要であった。加えて、東北の工業を支えた石炭、鉄鉱、石油などの豊富な鉱物資源が徐々に枯渇するという問題にも直面している。ロシア極東部も冷戦終焉後の平時経済への移行に伴い、軍需に支えられていた経済が縮小、人口が減少している。北朝鮮経済は、ソ連の解体による安価なエネルギー供給源の喪失と、自然災害の影響を受け、1990年代の長期マイナス成長を余儀なくされ、90年代末以降プラス成長に転じたものの、経済活動の前提条件であるエネルギーの不足状況は継続し、経済成長を大きく制約している。その解決には国際協力が不可欠であるが、南北分断、日本ならびに米国と対立するなかでの核開発や「ロケット」発射は、6カ国協議再開等の努力がなされているものの、南北協力事業をはじめとする北朝鮮への経済協力の前提を掘り崩している。これらの背景の下、東北アジアは、東アジアの中で相対的に経済成長が遅れており、それを放置したままでは、東アジアの経済協力は不安定であり、持続可能とはならない。
このような状態を克服するためには、国境周辺地域を重点の一つにしながら、東北アジアの経済発展条件を国際協力によって整備することが急務である。道路、鉄道、港湾などの産業インフラ、医療、衛生、教育などの社会インフラを域内各国政府の協力によって整備し、東北アジアならびに東アジア内部の格差を是正するための基盤作りを進める必要がある。
必ずしも一直線に事態が進展し、目覚しい成果が得られているわけではないが、地域内国際協力による経済社会発展につながる可能性を持つさまざまな努力がこの間なされ、政策が導入されている。東北アジア地域協力前進の上で非常に重要でありながら困難な課題は、北朝鮮を東アジアの高成長メカニズムに組み入れることである。2000年の金大中韓国大統領の平壌訪問と南北共同声明を契機に南北和解協力事業が大規模に展開されている。2002年には北朝鮮で市場経済原理の部分的導入を図った経済管理改善措置などが実施され、新義州などにおける経済特別区設置、小泉日本首相の平壌訪問と日朝共同宣言が発表された。中国東北では2003年末から「東北等老工業基地振興戦略」(2007年には「東北地区振興計画」を制定)の下、物流インフラ整備、各地の新たな開発区設置、企業改革と対外開放の推進、さまざまな社会保障制度整備が進められている。韓国でも「東北アジア経済中心国家構想」(2002年)による釜山、仁川、光陽の「経済自由区域」指定をはじめ、各地で港湾整備、開発区設置などが進められている。ロシアでは、原油価格上昇などによる経済成長を背景に「極東ザバイカル社会経済発展プログラム」を制定(2007年8月)、2012年のAPEC首脳会議のウラジオストク開催決定を背景に、極東ロシアでは、インフラ整備を中心にさまざまな事業が展開されようとしている。
これらの試みを背景に、この間東北アジア各国間の二国間経済連携は大きく発展している。中国、ロシア、韓国、北朝鮮の相互の貿易の年平均伸び率(2000年と2007年を比較)は、日中貿易が10%台(13.4%)、日韓貿易が6.8%、日本と北朝鮮の貿易が唯一のマイナス(-76.0%)である以外はすべて20%以上となっている(坂田幹男「北東アジアの二国間経済連携の拡大と国際物流ネットワークの展望」、2009年3月14日『北東アジア・アカデミックフォーラム全体交流会』)。投資面でも、2004年~2007年の日本、韓国からの対中国投資は毎年、30億ドルから60億ドルに上り、4年間合計でそれぞれ200億ドル弱(日本が196.4億ドル、韓国が189.9億ドル)という大規模投資が展開されている(同)。中国のロシア(商業など)、北朝鮮(鉱山、商業など)、日本(中堅製造業など)への投資も始まっている。
ただし、各国・地域のさまざまな努力にもかかわらず、二国間経済連携を支える多国間経済協力の枠組みを東北アジアにおいて構築することや、国際協力による地域の経済インフラ、社会インフラを整備する課題はまだ十分に達成されていない。米国を中心とする地域外最終需要に依存するこれまでの経済成長パターンの転換が求められている現在、日本、韓国、中国の間のFTAあるいはEPA(協議の促進・開始、2国間協定の束を統合するとともに他国へ拡大)締結等を通じた域内経済循環の拡大と深化、ならびに、持続的発展を可能にする経済、社会インフラ整備を通じた地域内需要のいっそうの拡大が求められている。相対的に経済発展が遅れ、経済協力システムの構築が不十分な地域において、こうした課題を達成するためには、短期的効率の最大化を追求しがちな市場メカニズム(力)だけでは不十分である。政府や社会の力が不可欠であり、地方政府や地方社会の取り組みとそれを通じた各国中央政府への働きかけ、中央政府の計画や政策との結合が重要である。
この間、中国、ロシア、北朝鮮の国境地域において国境をまたぐ経済協力区(東寧・ポルタフカ互市貿易区、綏芬河‐パグラニチヌイ国境地帯通商貿易・経済協力区)設置や、物流インフラ整備の試み(琿春―マハリノ鉄道敷設、琿春―羅津道路港湾整備合意)が地方政府や地方企業の努力によってなされてきた。しかし、計画の前提である出入国ビザ免除が中央政府によって認められない中、中国側でなされた貿易区設置などの大規模投資は所期の成果を収めていない。物流インフラ整備についても、鉄道の商業運転は行われず、道路港湾整備の合意は実行されないままで推移している。他方で、ロシア沿海州と羅津間の鉄道整備がロシアと北朝鮮政府間で合意し着工されるとともに、トロイツァ(ザルビノ)―束草―新潟を結ぶ日本海(東海)新航路開設のための会社が3国の地方政府と企業の協力によってすでに設立され、試験航行を重ねている。現在のところ未利用、未実行となっている上記のプロジェクト、さらに南北協力事業で実現した朝鮮半島東西海岸線の鉄道、道路の連結(政治的緊張の高まりを背景に現在は円滑な通行が実現できていない)等とロシアと北朝鮮の鉄道整備、ロシア、韓国、日本の新航路を組み合わせることができれば、東北アジアの物流インフラ整備における重要な前進を達成できることとなる。
 森嶋通夫はかつて21世紀における東アジア共同体の設立を呼びかけ、その内容を「経済建設共同体」とした(『日本にできることは何か』岩波書店、2001年、186頁)。グローバル化と市場化の一面的進展が生み出した世界経済危機に直面している現在、国家をまたぐ地域間の協力の意義、ならびにその実現の上での地方政府や社会の役割を改めて認識し、中央政府への働きかけも含め、東北アジアの経済、社会インフラ建設のために協力可能な課題を粘り強く一つ一つ達成してゆくことの重要性をもう一度確認したい。

(2009年5月5日稿)

  


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2009年06月24日

「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」で坪谷美欧子様の発言

中国東北地方からの日本への移住現象とその意味
――北東アジア地域における社会学的視角の重要性――

          日本横浜市立大学国際総合科学部準教授・黒龍江省社会科学院訪問学者 坪谷美欧子

1.問題提起
日本に滞在する中国人は1980年代以降増加の一途をたどり、2007年末に韓国・朝鮮人の約59万人を抜き、およそ60万人と最大規模の外国人人口をなしている。中国人の移民プロセスの特徴の一つは、留学から日本企業や研究機関等への就職という長期滞在パターンが成立している点で、他のニューカマー外国人にはみられない、日本の高等教育、社会、経済と深いつながりを持つ集団を形成している。近年では日本国籍や永住資格を持つ中国人も急増する一方で、常に帰国が意識され強いナショナル・アイデンティティを保持している点に報告者は以前より注目してきた。
さらに、近年急速に増加する中国の東北三省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)から日本への人口移動の問題を広く概観すると、留学のみならず、日本人と結婚のために渡日する女性やその子どもたち、中国残留孤児の帰国者、日本企業への就職などの入国ルーとも看過できない。
そこで今回の報告では、中国から日本への留学という移住現象を中心に、北東アジア地域の社会学の発展の可能性について探ってみたい。

2.中国人の日本留学にみる「国際移民システム」
2007年度末のデータによると、日本における中国人留学生は約8万5千人で、就学生は2万2千人、そして日本の企業等で就職する人数は5万人ほどである。2000年以降は永住者資格を取得する者も目立っており、その人数は2007年末で約13万人にのぼっている。
報告者は以前より、中国人の日本留学について、1980年代からの日中間(さらには関係諸国も含む)の政策、経済、労働市場的、社会的なネットワークから形成された「国際移民システム」(Kritz et al. 1992: 2-4)の一つとして把握してきた。中国からの留学生増加を招いた中国側の要因としては、80年代の改革・開放期の中国において出国は社会移動の一つの「手段」であったことである。日本側の要因としては、1983年に打ち出された「留学生10万人計画」という留学生の量的な受け入れの強調一方で、法務省の「留学」「就学」資格者へのアルバイトの容認という矛盾した政策にある。留学生受け入れ政策において欧米と日本の大きな違いは、欧米は留学生を卒業後も就職等で滞在し続ける「移民」として現実的に捉えている点である。しかし80年代から日本側の留学生受け入れ政策は、「教育」「友好」「国際協力」の意味あいが強調されていた。
中国人留学生の卒業後の日本企業への就職については、2007年の在留資格の変更件数でみても韓国が1,109件であるのに対し中国は7,539件と、決して少なくない人数である。しかし企業側の意図と留学生たちの認識のズレが存在するようである。中国人留学生に限ったデータではないが総務省が行った81大学等への調査結果によると、「留学生が就職できない理由」としては、①留学生希望条件と企業採用方針との違い(26.3%)②留学生の学力不足等(26.3%)③高齢(18.4%)が挙げられていた。この問題は一見すると、職種・勤務地など新卒者についての採用条件の不一致や学生側の能力や資質の問題と思われがちだ。しかしこの問題は、両者の間にあるキャリア形成に対する認識のギャップが大きいのではないだろうか。まず、企業側がかれらの日本語能力を「通訳代わり」にしか捉えていないことが大きいのではないかと推測される。実際に留学から就職への在留許可が下りている職務別許可数でも、「翻訳・通訳」が3割以上を占めており、他の「販売・営業」「海外業務」「技術開発」「貿易業務」などとの差は大きい。グローバル化に伴い近年は崩れつつあるとはいえ、長期の雇用を通して信頼や忠誠を重視「日本型経営」も影響しているかもしれない。留学生のキャリア形成については、日本での転職の選択肢等も含め、行政・大学等の教育機関・地域社会による就職支援や連携も求められている。
他方2000年頃からは、中国からの日本留学も変化しつつある。学業とアルバイトに悩む「苦学生」というイメージから、母国での激烈な大学受験を避ける形で留学を目指す若者や富裕層の留学も目立つ。またかれらが日本での学びに求めるものも多様化しており、日本の経済・経営や科学技術だけでなく、漫画、アニメ、デザイン、菓子製造などへの関心も高いという。
OECDが2002年に発行した『専門職労働者の国際的な移動』のなかでは、先進国における留学生は専門的移民受け入れの「先駆者」的存在という見解が示されている。日本側の留学生受け入れ政策が量的受け入れの強調と規制緩和を繰り返し、長期的な留学生像や政策が欠如していることが明らかだ。2008年には「留学生30万人計画」が文部科学大臣の最高諮問機関である中央教育審議会より打ち出されており、2020年をめどに30万人の留学生受入を目指されている。その中では、卒業後の日本企業への就職支援も課題として挙がっているが、とりわけ「優秀な留学生を積極的に獲得すること」が強調されている。現在留学を希望する中国人が多い欧州、北米、オーストラリア、シンガポール、南アフリカなど英語圏を中心とした諸国と比較した場合、日本がどれだけ留学生にとって魅力的な国になれるのだろうか。国の留学生政策のみならず、日本企業や大学等教育機関にとっても、アジア地域および海外戦略にどのように中国人留学生を位置づけるのかは重要な鍵となるだろう。

3.中国東北部からの移住と北東アジア地域の社会学発展の可能性
ここまでは現代における中国から日本への移住について述べたが、近代まで遡れば日本において中華街などを形成した伝統的な華僑・華人は広東、福建、台湾などの出身者からなっていた。改革・開放政策の後1980年代以降は、北京や上海のような都市部および沿海部からの留学生や就学生を中心に増加した経緯がある。だがこれからは、東北地方が日本への移住者送り出しの地へと変貌を遂げる可能性は高い。
2007年末の在日中国人の本籍地別でみると、遼寧省の97,764をトップに、黒竜江省62,438人、吉林省51,749人、と東北三省出身者が在日中国人のマジョリティを占めるようになっている。これらの後に、上海市57,431人、山東省49,673人、福建省47,540人、北京市23,937人と続く。言うまでもなく中国の東北地方は地理的にも近く、日本とは独特な歴史的背景を有している。旧満州であった東北三省には中国残留孤児が多く、その帰国者家族の来日も進んでいる。優れた日本語教育を行う教育機関も豊富で、日本語学習者が多いだけでなく、日本語を外国語として選択した朝鮮族が多く暮らすことから、全体として日本留学のへ関心も高い。こうしたつながりを持ちながらも、80~90年代には在日中国人の多数を占めるには至っていなかった。
今後は、移住者送り出し地域である中国の東北地方への社会的・経済的なインパクトについても検証が必要である。たとえば現在、途上国で海外出稼ぎ労働者による本国への送金が、ODAを凌駕して直接投資に次ぐ規模に達しているため、国外からの資金調達ルートの一つとして、IMFや世界銀行等の国際機関の多くが労働者送金の重要性に注目している。日本移住者から中国東北地方の家族等への送金の額も、決して少なくないとみられている。また留学経験者が帰国した後の就職や起業パーク創設などの帰国優遇政策についても、東北地方の瀋陽、長春、ハルビンなどの都市で活発になりつつある。
以上をふまえると、北東アジア地域の発展を見極める上でも中国東北地方からの人の移動現象についての学術的な意義は高まっている。今後は国際的かつ学際的に北東アジアの研究者が共同研究等を行う余地もあるだろう。国際的な人の移動を促す複雑な要因や結果の分析の際には、社会学的な視点を導入し検証することが重要ではないだろうか。北東アジア地域における社会学の発展のためにも、中国から日本へのさまざまな移住現象は今後も重要性を増す研究分野といえるだろう。





  


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2009年06月24日

「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」で丸屋豊二郎様の発言

 緊密化する日中経済関係と黒龍江省の課題                               -北東アジア生産ネットワーク形成に向けて-

                        日本貿易振興機構(アジア経済研究所担当)
                                理事 丸屋豊二郎 

 2000年以降、東アジア生産分業の再編によって日中経済は拡大の一途を辿っている。機械産業における工程間分業に照準を当て緊密化する日中経済関係を振り返り、今後の日中経済関係を展望する。これを踏まえ、北東アジア生産ネットワーク形成に向けた黒龍江省の課題について考える。
1.拡大、高度化する日中経済関係
 2000年前後から日中経済関係は大きな飛躍を遂げている。アジア経済危機を契機とした日本企業の生産分業再編によって、コスト・パフォーマンス、産業集積、国内市場規模で比較優位を有する中国への直接投資が急増し、これに伴い日中間の貿易も急速に拡大したことによる。
 第1図は日本の対中国直接投資と対中国貿易の推移を示している。これをみると、日本企業の対中国直接投資は、1999年をボトムに2005年まで急激な増加をみせ、その後は伸び悩んでいるものの、依然として高水準を維持している。また、日中貿易も直接投資の拡大に歩調を合わせるように輸出、輸入とも著しく増加している。こうした2000年前後から始まった第3次投資ブームは、対中国投資、日中貿易とも第1次(1980年代)、第2次投資ブーム(1990年代)と比べものにならないほど拡大している。こうした背景には、日本から中国への直接投資が急増、つまり日本企業の中国への生産移転の進展に伴い、日本から現地日系企業への部品・資本財の供給や中国で加工・組立てられた製品の日本への逆輸入が急激に増加したことが挙げられる。


こうした中、日中経済関係はハイテク製品貿易や部品の双方向貿易の高まりにみられるように構造的にも高度な分業関係が構築されている。具体的には、まず、日本から中国への輸出は一貫して機械類が大きなシェアを占めているが、その中でも主要製品がテレビなどの耐久消費財から現地生産のための紡織機などの機械設備、さらに2000年に入ると集積回路など基幹部品へとシフトしてきた。一方、日本の中国からの輸入は80年代までは原燃料、90年代前半には繊維・同製品類が大半であったが、90年代中頃から機械類が急速にシェアを拡大。その内訳も、完成品ではラジオ、テレビなどからパソコンなどに高度化すると共に、完成品だけでなく集積回路や事務用機器部品など部品貿易も活発化している。最近の日中貿易(生産分業)構造は、中国が一方的に組立工程を担い完成品を輸出するという垂直貿易(分業)から脱却し、水平貿易(分業)へと向かっているといえよう。
 しかし、順調に拡大してきた日中経済関係にも最近、陰りがみられる。日本企業の対中国投資は2006年以降伸び悩んでおり、製造業投資についてはむしろ減少傾向にある。また、日中貿易も欧米と比べ相対的に伸び悩み、垂直貿易から水平貿易への動きも緩慢になっている。こうした日中経済関係の緊密化、高度化が緩慢になった背景には、製造業の日本回帰、ベトナム、タイなど東アジアへの生産シフトが挙げられるが、中国の投資環境も大きく影響している。日本企業の対中国投資は一巡した状況下で、更なる高度な分業関係を構築する(ハイテク産業を誘致する)ために日本企業を呼び込むには、それに見合った投資環境整備が必要である。具体的には、経済法制度の合理性・透明度の堅持、知的財産権保護、運輸・電力等インフラ整備など、それに裾野産業の育成や資金調達・決済に関する規制緩和など経営環境の改善に努めることが喫緊の課題といえよう。

2.北東アジア生産ネットワーク形成に向けた黒龍江省の課題
 最近の日中経済関係の緊密化は、日中貿易の約7割を主に中国沿海部に進出した日本企業など外資系企業が担っていることから明確なように、中国沿海部と日本の生産分業に起因している。こうした中国沿海部との生産ネットワークを内陸部(黒竜江省)へ拡大していくためには、大胆な発想と政府の決断、実行が必要である。
 黒竜江省にとって今、もっとも必要なことは、人件費等のコスト上昇や産業高度化政策によって中国沿海部から撤退あるいはベトナム、カンボジアなどへ生産シフトする労働集約的な外資系企業を如何にして取り込むかということである。これを実現するためには、1980年に広東省に4つの経済特区を設立したような大胆な構想、具体的には、所得税の減免、2免3減鮮度、それに保税区を設けて開発区から港湾までの高速料金を無料にするなど生産ネットワーク形成を意識した政策がとれるかどうかにかかっている。重要なことは、①ベトナムなどチャイナ・プラス・ワンの国々に匹敵するような外資優遇政策を賦与すること、②輸送・通関などサービスリンク・コストを低減するためのインフラを整備することである。
 黒竜江省は人口3800万人を擁し、省西南部には香港の面積に匹敵する哈大斉工業回廊を有している。長春、瀋陽、大連に繋がる東北産業大動脈だけでなく、ロシアと約3000kmに亘って国境を接し15ヵ所の陸路開放港湾を有するほか、江海聯運などを通じて日本海に出ることもできる。黒竜江省と極東ロシアを併せた消費市場への生産基地、そして将来的には日本海を通じた海外生産基地としてのポテンシャルは大きい。折しも中国は胡錦涛総書記が提唱した科学的発展観の下、調和社会実現のため東北開発にも力を入れている。また、日本企業など外国企業も世界経済が低迷する中、中国内陸部の市場開拓に関心を持つ企業も増えている。中国は成長著しい沿海部と潜在成長力を有する内陸部の経済格差をうまく利用すれば、沿海部は産業高度化に邁進し、内陸部は要素賦存に応じた労働集約産業を発展させることができよう。
最後に、日本のある環境学者は、地球温暖化時代の到来で経済発展の中心は、2020年から2030年頃にはモンスーンアジア、なかでも中国東北地域、極東ロシア、朝鮮半島、日本東北地方からなる北東アジア地域へシフトすると指摘する。関係各国・地域は、長期的視点に立って北東アジア経済圏の形成に向け、地域間経済交流を強化していく必要があろう。





  


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2009年06月24日

「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」での青木麗子様の発言

留学生交流を通して、九州と黒竜江省との絆を強める                       
                            
                              2009年6月14日
                      福岡県留学生サポートセンター長 青木麗子

 昨年のこの時期に第一回目の北東アジア発展協力フォーラムが、ここハルピンで開催され、私もスピーカーとして参加させていただき、中国を始め、ロシア、日本、韓国、モンゴルなどの国々から参加されていた大勢の皆様と楽しく有意義な交流をさせていただいて、多くの事について学ばせていただきました。そして、今日もまた、ライラックの花が美しく咲き誇る素晴らしい季節に、再びこうして皆様と再会できましたことを心から嬉しく思います。ここに、主催者であります中国社会科学院と黒竜江省人民政府、黒竜江省社会科学院の関係各位に心から感謝を申し上げます。
スピーチの前に少し自己紹介をさせていただきいと思います。私は1959年に日本人である両親のもとに中国で生まれ、人格形成の上において極めて重要な幼少期を中国で過ごし、日中両国の文化の恩恵を受けながら育ちました。その中でもちろん、辛い事もたくさん経験しました。多くの葛藤を乗り越え、日中両国の架け橋となることは、幼ときからの私の夢でありました。そして、その夢は、通訳という仕事を通して実現することができました。これまでの20数年間の通訳の仕事を通して、江沢民、胡錦濤、朱鎔基、李瑞環など、数多くの中国国家指導者の皆様の訪日時の通訳の仕事や国際会議の通訳を数多く担当させていただきました。そして、政府要人、学者、企業人、学生などなど、数えきれ居ないほどの皆様と接して参りました。その中で、日中両国の人々の心の中に分厚い壁が立ちはだかっているいるということも痛感してきました。日中両国の人々の心の壁を取り除き、日中両国の人々がさらに交流を深め、信頼し合える関係を築くことに貢献すること、これが私の新たなる夢となりました。
 さて、昨年、私はこの会議において、ソフトパワーの事について言及させていただきました。私は平和共存社会を実現する上に置いて、ソフトパワーが果たすべき役割が非常に大きいと考えています。中国には「仁者無敵」という古いことわざがあります。もし、世界中の人々がもっとソフトパワーを重視し、ソフトパワーを高めるために努力し、国徳を積み上げ、世界の人々から尊敬を集めることができれば、国を守るために必死に軍事力強化する必要もなくなり、そうなれば軍事力強化に投じる莫大な予算を国民の福祉に使うことができたら、どんなにか素晴らしいだろうと思うのであります。
 ところで、本日は、留学生というテーマ取り上げて、皆様とともに考えてみたいと思います。私が住んでおります日本国福岡県は、中国大陸とは地理的に近く、二千年も昔から日本国内における大陸との交流の窓口として、大きな歴史的役割が果たしてきた地域です。古代において、我が国日本は、中国に多くの事について学びました。唐と宋の時代には、多くの留学僧が福岡にある博多港から出発して、大陸を目指しましたが、これらの留学僧達が大陸から多くの文化を日本に持ち帰って、福岡の地から日本全国に広げていきました。
そして、今日に至っても、福岡県は、アジアに開かれた地域として、麻生渡知事の強いリーダーシップのもとに、世界の人々との交流事業に大きな力が注がれ、国際社会と共に繁栄することを目標に努力を積み重ねております。九十年代のバブル経済崩壊後、日本国内において、多くの地方自治体は、海外との交流事業予算を大幅にカットしました。しかし、福岡県は逆に、これまでの香港事務所、ソウル事務所に加え、2002年以後、上海、サンフランシスコ、フランクフルトにも県の事務所を開設し、これらの国や地域との交流事業に大変積極的に取り組んでいます。中でも、麻生知事は、未来を担う若者同士の相互理解と交流を大変重要視しています。
昨年の七月に「福岡県留学生サポートセンター」を設置しました。このサポートセンターは、福岡県が主となって、九州大学を始め地元の九つの大学、そして、地元経済界、福岡市、北九州市、久留米市、飯塚市などの地方自治体とも連携しながら共同で運営しています。このような産学官が一体となって留学生支援に取り組む組織としては日本全国でも始めてであり、留学生の皆様からはもりより、社会からも大きな期待が寄せられています。
 今、世界中から12万人を超える留学生が日本で学んでおり、その1割に相当する1万2千人は九州に、そしてその中の6割に相当する七千名弱の留学生が福岡で学んでおられます。そして、89か国からなるこれらの留学生の内、約五千名の留学生は中国からやってきています。そのこともあってか、麻生知事の任命を受けて、私は当センターの初代センター長に就任させていただきました。今、約7千名の留学生が福岡の地で学ばれていますが、2020年には留学生4万人を目標に、私は大きな使命感をもってスタッフと一丸となって、留学生のために、悩み相談、アルバイト紹介、就職支援などなどの事業に取り組んでいます。そして、私が最も力を入れて取り組んでいる事業の中に、日本文化塾があります。
日本文化塾を通して、留学生の皆様が、日本の伝統、地域、企業精神などについて学んでいただきながら、地域住民と留学生との交流の場を広げ、社会的な留学生を支援するムーブメントを作っていきたいと考えています。また、日本の若者たちにも日本文化塾に参加してもらって、留学生との交流を通して、大いなる異文化の刺激を受け、グローバルに生きる力を養い、世界の若者とともに逞しく成長してほしいと考え、日本文化塾の開催に努めているところです。普段、大学で接することの出来ない知事を始めとする政治家、日本国内の企業のトップリーダーの方々に講師にお迎えして、普段、大学では学べないことを大いに学んでいただいて、参加者から大変高い評価を受けています。また、留学生の皆さんにとって、真の友人を作る絶好の場となっておりますことは何より嬉しいことです。
私は留学生の皆様が福岡で安心して留学生生活が送られるよう、私は留学生の日本の母、センターのスタッフは留学生の兄弟として、留学生の皆様と接するように心がけています。
私たちは今ボーダーレスの時代に生きていていると言われいます。しかし、このボーダーレスの意味は、国境やパスポートという壁の意味で、私は、将来、世界の人々が互いを理解し、互いを尊重し、真の心のボーダーレスの時代がやってくることを願っています。そのためにも、今、留学生支援活動を必死に取り組んで行く必要があると痛感しています。
そして、私は、ここ黒竜江省から多くの若者が福岡に留学にきていただきたいと考えていますし、多くの福岡の若者たちにもハルピンに留学してほしいと願っています。もちろん、このことを具現化させるためにも、黒竜江省社会科学院の皆様と連携を密にしていきたいと願っています。黒竜江省は上海と比べて、距離的には九州・福岡と遠く離れ、交流が相対的に多くはありません。だからこそ、私は、日中両国の未来のことに思いをはせた時、この両地域の若者達の相互理解を深めることは、両国の明るい日中両国の未来を築き上げる上において極めて重要なことだと思うのです。日中両国の友好関係の発展は、北東アジア地域の平和と安定を握る重要なカギであるからであります。留学生交流を通して、九州・福岡と黒竜江省と絆を強めていきたいと願っています。




  


Posted by 虎ちゃん at 21:36Comments(0)友人の大作

2009年06月24日

「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」での岩下明裕様の発言

                           「国境から世界を包囲する」                      
                       北海道大学スラブ研究センター長 岩下明裕

  2009年6月14-15日、中国黒龍江省ハルビンにて、省政府と中国社会科学院主催による「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」が開催されました。これは、中ロの2カ国間で毎年開催されてきた会議が、日韓蒙などを加えた多国間会議へと発展したもので、中国語・ロシア語・英語の同時通訳により、全体会議が実施されました。日本からは丸屋豊二郎理事(ジェトロ・アジア経済研究所)、吉田進理事長(環日本海経済研究所)、坂下明彦教授(北海道大学大学院農学研究科)ら豪華な顔ぶれが参加し、スラブ研究センターからは岩下が招待されました。黒龍江省社会科学院では伝統あるロシア(シベリア)研究所が有名ですが、日本専門家のだ志剛所長が率いる北東アジア研究所が台頭し、日本と韓国の人脈のプレゼンスが高まっています。センターが低温科学研究所と協働している環オホーツク海環境プロジェクト、そしてこれから始動するGCOE「境界研究の拠点形成」のパートナーとして、ハルビンの研究所や大学との協力関係の深化・拡大が期待されています。

(岩下明裕)

ハルビンのみなさまに、まずは中国とロシアの国境問題が昨年、完全に解決されたことを心からお祝い申し上げます。私は1994年以来、15年にわたり、中国とロシアの関係を、主に国境問題を軸に研究してきました。中国のみなさまがいかにロシアとの国境問題の解決に苦闘し、がんばってこられたのかを熟知しております。そして、この問題が解決されたことは、単に中国とロシアの2カ国間だけではなく、北東アジアを越えて、ユーラシア全体の、いやもう少し申し上げれば、世界全体を変えうるほどの大きなでき事だと確信しております。
中国は私たちが想像する以上の国境大国です。冷戦時代において中国政府が、外交を語るときに、イデオロギーを強調していた時代でさえ、国境の問題は中国の安全保障にとってきわめて重要な規定要因で有り続けたと私は考えます。中国の陸の国境は実に22800キロに及びます。それはモンゴル、アフガニスタン、パキスタン、インド、ネパール、ブータン、ミャンマー、ラオス、ベトナム、北朝鮮、ロシア、カザフスタン、クルグズスタン、タジキスタンなど、ロシアや中央アジアはもちろんのこと南アジア、東南アジアとおおきな広がりをもちます。1960年代に中国はミャンマー、北朝鮮などと国境問題を解決し、国境地域を安定させようとしました。しかし、インドでつまずき軍事衝突となり、そして決定的なソ連との紛争がおこり、これにベトナムを加えて、中国の安全保障はきびしい状況に追い込まれます。鄧小平が、かつて冷戦末期に対ソ関係改善に条件を出したことがありましたが、これはソ連のモンゴル駐留撤退およびアフガニスタン撤退、カンボジア和平、よく考えていただければ、すべてが中国の国境にかかわる安全保障問題であるとともに、このすべてにソ連・ロシアが関係していることがわかります。ソ連とインドが当時は反中国同盟を結んでいたことを考えると、いわば中国は、対ソ連国境以外の場所でも、ソ連の勢力が囲まれていたわけですから、いかにこの問題が中国にとって大事な問題であったかがわかります。要するにポイントは、1)中国にとっての国境の存在がある意味で決定的な外交制約要因であること、2)そして冷戦時代はそのすべてがソ連と結びついていたこと。
要するに旧ソ連との国境問題の解決は、たんに局地的な問題ではなく、ユーラシア全体にかかわること、そして中国全体の利益にかかわることであります。ですから、中国がロシアとの国境問題を解決するプロセスは、中央アジアやベトナムとの問題の解決も後押ししました。私は中国とインドとの国境問題が解決されることもそう遠くないと確信しております。いわば、黒龍江省はそのような中国全体の国益や外交に資するモデルとなった場所です。ですから、今日、この日に中ロ国境問題解決の意義は強調しすぎてもしすぎることはありません。
ヘイシャーズ島をロシアとわけあって解決した方式、いわゆる「フィフティ・フィフティ」はいまやいろいろな場所で注目を受けています。ご承知の通り、日本では麻生太郎首
相や一部の外交関係者がこの方式に注目し、ロシアとの北方領土問題が動かせないかと考えているようです。そして、この「フィフティ・フィフティ」のやり方で、当事者すべてが「勝利する(ウィン・ウィン)」は、今後の世界の国境問題の有力な解決方法の一つとなって広まっていくのではないかと私は期待しております。
私がとくにここで強調したいのは、国境から世界をみるという視点であります。中国とロシアの関係を、旧来の国際政治的な発想、つまりバランス・オブ・パワーの「色眼鏡」でみて、いまだに中国とロシアが同盟を結んで米国に対抗しようとしている、あるいはしていない、という議論がなされています。今年の4月から5月にかけて、私はワシントンの国防総省、国務省などの関係者が集う、3つの異なる、しかし中ロ関係を扱うという意味では、同じテーマ会議に続けて参加しました。そこで、私が改めて痛感したのは、中国とロシアの国境問題の意味が全く論じられていないということでした。いや、彼らは国境をめぐる中国とロシアの現実や交渉そのものもよく知らないのです。
私はそれらの会議で同じことを繰り返し言い続けてきました。「中国とロシアにとって国境の意味は決定的である。ユーラシアから遠く、カナダやメキシコという「弱い」隣国をかかえ、国境にかかわる安全保障を憂慮することなく、移民問題などの国境問題を米国の国内問題(国際問題ではない!)と考える傾向の強い、米国の戦略家は、ユーラシアの現実を何もしらない。そのような思考停止や誤った理解は米国の利益をもそこなうし、世界にとっても悪影響を及ぼす。中国とロシアの関係の真の姿や実像をもっと偏見なしにみよ」と。
私の訴えは、まだまだ力の小さいものです。そして、ワシントンのこの国境問題への無関心は、ある程度まで、他の国の首都にも通じます。たとえば、北京やモスクワの戦略家で中国とロシアの国境問題に関心を払い、その重要性を理解している人が果たしてどれだけいるでしょうか? ロンドンや東京で国境問題の意味をきちんとわかっている人たちが何人いますか?
グローバル化がすすみ、地域の相互依存がすすむ現在、世界は片方で国境が消え(de-borderlization)、他方で新たな国境(re-borderlization)が生まれています。そして移民、経済、環境、パンデミックなど国境を越える(trans-borderlization)課題が大きくなっています。世界は国境をキーワードに再構成される時期がきていると私は考えます。
世界にはいくつかこの国境研究をすすめる拠点があります。ひとつは英国のスコットランドとイングランドにちかいダーラム大学。ここには国境画定研究ユニット(IBRU: International Boundary Research Unit)という世界の国境画定問題を比較分析するセンターがあります。米国ではカナダ、メキシコをつなぐ国境地域研究協会(ABS: Association for Borderland Studies)が西海岸の大学を中心に組織されています。ヨーロッパではロシア国境にちかいフィンランドのカレリアや、ドイツ国境に近いオランダのナイメーヘンの研究機関がたちあげた国境研究ネットワーク(BRIT: Border Region in Transit)があります。重要な点はこれらの組織やネットワークがすべて、国の首都にはない、すべて国境問題の現場からうまれてきたという点です
しかし、残念ながら、ユーラシアや東アジアにはそのような組織がありません。
北海道大学は、ロシアにちかい札幌という辺境の地にあります。私たちは国境に敏感な地にすむメリットをいかして、スラブ研究センターが中心になって新たな国境研究の拠点をここに作ろうと考えています。黒龍江省は歴史的にも地理的にも中国でまさに国境研究の拠点になるのにふさわしい場所です。ぜひ一緒に、ユーラシアや東アジアの国境研究ネットワークを立ち上げましょう。そして、世界の国境ネットワークと合流して、北京、モスクワ、東京、ワシントンといった国際政治を動かしている場所に私たちの声をとどけて、世界を変えていこうではありませんか?
北東アジアを越えて、北東アジアの現場の声を世界に届ける。そのような使命がいま、求められています。まさに今、国境にすむがゆえに、私たちは世界を変えるチャンスをえようとしています。今後とも黒龍江省のみなさまと「同志」として闘っていければと思います。

2009年6月14日
北海道大学スラブ研究センター
岩下明裕




  


Posted by 虎ちゃん at 21:24Comments(0)友人の大作