2009年06月24日

「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」での朴紅様の発言

中国三江平原の水田開発と稲作経営に関する研究

                        -X国有農場第17生産隊の事例-

                        朴 紅・張錦女・笪志剛・坂下明彦
 

はじめに
 本論は、アムール川、松花江とウスリー江が合流する大湿地帯である中国三江平原における水田開発とそのもとでの稲作経営の展開を規模拡大過程と機械化の進展に焦点をあてて特徴づけを行うことを課題としている。
 三江平原の水田開発は、WTO農業交渉の行方と関連してSBS米の輸出基地として1990年代末から関心が寄せられ、近年では国内米価の下落のなかでSBS米の位置づけが後退し、目立った研究がみられないのが現状である。しかし、対象地は東アジアのなかでも新興の稲作地帯であり、しかも10ha規模の家族経営としては比較的大規模な稲作経営が分厚く存在しており、この動向を長期的に観察することは東アジア稲作研究にとって意義のあることである。われわれは、1997年から三江平原の拠点都市ジャムス近郊のX農場を対象として継続的な調査を実施してきた。
 2006年夏の調査では、米価下落により稲作面積が急速に縮小した2003年以降の稲作経営の動向把握を意図したが、対象とした生産隊は日本向け輸出米の生産基地に指定され、稲作縮小はわずかであった。そのため、生産隊に即して水田開発過程をより詳細に跡づけるとともに、農家の規模拡大と稲作機械化の進展度を階層別に観察し、稲作経営の到達点を明らかにすることを課題とした。

 1.対象生産隊の特徴と水田開発過程
 1) 第17生産隊における水田開発の現段階
X農場は、総面積26,760ha、稲作面積10,987haの中規模国有農場である(2006年)。農場内には下部組織として36の生産隊が存在しており、東南部に位置する第17生産隊は農家戸数65戸、耕地面積662.9haであり、平均的な規模である。農場の本格的な水利開発は、1985年からの掘り抜き井戸による灌漑から始まったが、第17生産隊の区域は10年後の1993年からであった。
1990年までは松花江の河川水による自然流下方式の灌漑が主流であったが、1991年から東南部の河川灌漑事業が中止され、ダムは排水対策向けとされた。これは、河川の水量不足により取水が困難となり、雨季に多発する水害対策に用途転換されたためである。
農場の水利開発計画の中で、1992年以降は井戸灌漑開発地区に指定され、1992年と93年には生産隊による井戸の一斉掘削が行われた。
井戸建設に伴い、水田化が急速に進展し、1994年には全面積673.7haのうち552.6ha(水はり面積は501.8ha)が水田化された。残りの121.1ha(11~13号圃場)は河川沿いの条件不利地であり、畑地のまま周辺農村の農家に貸し付けられている。そのため、第17生産隊の土地利用は1994年から稲作に特化している。
農家戸数はすでに述べたように65戸であり、水田1戸当たりの面積は8.6haである。井戸数は70であり、1井戸の灌漑面積は7.9haであることから、平均しておよそ1戸1井戸となっている。経営規模別の農家数は後に詳しくみるが、5ha未満層が9戸、5~7.5ha層が19戸、7.5~10ha層が18戸、10~12.5ha層が11戸、12.5~15ha層が4戸、15ha以上層が4戸となっている。井戸灌漑であることに規定されて井戸の灌漑能力に対応した5~10ha層が37戸と57%を占めるが、零細規模層や大規模層も存在している。65戸農家のうち、農場の職工は36人(初代の職工が33人、2代目の職工が3人)であり、残りはのちに述べる招聘農家である。
また、第17生産隊は2003年より米の輸出企業であるXM公司に生産基地として指定され、9割以上の面積が契約栽培となっている。生産過程においては、稲の品種はもちろん、肥料、農薬などの使用について全てXM公司の指示を受けている。
生産隊の役割は、1999年の「両費自理」政策の実施を境に大きく変化している。「両費自理」とは、生産と生活の両方に関わる費用は農家が自弁するということである。これにより、生産隊は従来まで行ってきた生産資材の農家庭先への搬送サービスや、畑作時代の輪作のための作付け調整等の機能が無くなり、単なる農場の政策・命令の伝達機関と諸費用の代理徴収機関となっている。

2)水田開発の史的展開と特徴
以下では、農家のケーススタディを含め水田開発の史的展開を明らかにしておこう。第17生産隊の水田開発の歴史は1930年代にまで遡る。かつてここは「満蒙開拓団」の所在地であり、大規模水田開発が行われ、1940年代までは稲作単作の水田地域であった。現在でも当時の開拓団により作られた水路が利用されている。その後、開拓団の撤退によって水田の大半は荒廃地となった。解放後の1952年にこの地域には鶴立河農場(服役囚改造農場)が設立され、残された水田と荒廃化していた水田の一部を復田し、当時としては珍しい水田農場を作り上げた。文化大革命期の1968年には、知識青年がこの農場に下放され、服役囚は他の地域に転移させられた。知識青年は稲作の栽培技術を持たないため、水田は徐々に畑に転換されていった。1979年に鶴立河農場の一部がX農場に合併され(12,13,14,17,22,34,35隊)、鶴立河農場第5生産隊第1作業区が現在のX農場第17生産隊となっている。
1982年には国営農場においても生産請負制が実施されることになる。この時点での職工農家戸数は86戸であり、耕地面積は483.1haであった。うち、畑が400haであり、水田は83.1haに過ぎなかった。稲作については、12戸の職工に原則として1戸当たり2haを配分し、残りの面積については申し出に応じて自由に請け負うことができた。
水田開発は1985年からの復田の奨励期と1993年の計画的な全面水田化の時期に区分される。その際、注目されるのは「異地開発」とよばれる稲作の技術をもった農家の導入であり、第17生産隊では1989年から積極的に招聘農家(「水稲引進戸」)を導入した。初年度は6戸を導入し、以降毎年3~5戸導入したが、定着するようになったのは1990年代の半ば以降であり、2001年からは完全に中止した。現在の17隊の農家65戸のうち、職工は22戸に留まり、残りの43戸が招聘農家である。
 1985年からの「復田」期においては、栽培技術、品種問題、コメ価格の低迷等の要因により水田の増加は限定的であった。調査事例では、3戸でこの時期の水田開発がみられた。既存農家の№2のケースでは、1985年に4戸の共同により15haを請け負った。当時は小麦畑であったが、うち10haを4戸で開田し、1戸当たり面積は2.5haであった。このケースは成功例である。招聘農家では、№1のケースがある。これについては、後に詳しく述べるが、1989年に6戸の水稲「引進戸」として入植したが、翌90年には2戸が、91年にも2戸が帰郷し、現在存続しているのは2戸のみである。このように、この時期の開田には困難が伴った。
1993年からの第2段階では水田開発が一気に進み、1994年までの2年間でほぼ全ての面積が「復田」し、全戸が稲作経営を行うようになった。この背景には、米価の回復、土地改良の本格的な取り組み等が上げられる。また、第17生産隊の耕地は地勢が低いため、畑作より稲作の方が水管理面でも容易であることも1つの要因であった。X農場全体では、1985年から水田開発を始めたが、最も地勢の低い生産隊(第22隊)を優先したため、第17生産隊での開発は後回しとなり、およそ10年後に全面的な水田開発を実現できたのである。
水田化に伴い、1993年には共同経営の職工農家の使用権を配分し、完全に個別経営に移行した。93年の「復田」作業は生産隊で一律に行い、その費用は職工農家の個人負担となるが、生産隊を通して農場から融資を受けることができた。融資の期間は1年と3年の2種類であり、返済は収穫後に現金あるいは現物で行うというものであった。1ha当たりの「復田」の必要経費はおよそ1.5万元であるが、その中で最も経費がかかるのは井戸掘削と育苗ハウスである。井戸は1993と94年に、育苗ハウスは96年に一律に設置された。1994年以降は、この2つの設置作業は個別で行われるようになった。また、生産隊の機能は、水田化に伴いかなり縮小し、融資保証も1998年で廃止されている。
「復田」に伴う優遇策として、1年目の任務糧や利費の免除制度があった。畑作からの転換により、従来大規模経営に必要であった大型機械は不要となり、徐々に個別の稲作機械化が進展を見せていくが、当初実施された農場水稲弁公室による機械斡旋や融資などの支援策も廃止された。

 2.農家の流動性と規模拡大過程
 1)農家の流動性と規模変動
 以下では、この過程における農家の定着度と規模変動についてみてみよう。表1は、1994 年から2006年までの各年の農家作付面積一覧から作成したものである。まず、農家戸数は1994年の73戸から2006年には65戸へと8戸減少している。しかし、1994年から06年まで存続している農家は52戸のみであり、21戸が転出し、13戸が転入している。1994年起点の移動率は29%に及んでいる。1994年時点において、すでに招聘農家を多数含んでいるため、既存の職工割合はさらに低く、55.4%に過ぎない。農家の流動性が非常に高い社会であることがわかる。表2によれば、転出は稲作収益が減少した2000年以降、特に農場全体での稲作面積が急減する2003年に集中しており、それに伴っての入れ替え(転入)もあるが、転出に伴う規模拡大がみられるのも一つの特徴である。そこで、つぎに規模階層の変化についてみていこう。
 すでに述べたように、農家の経営規模は、5~10haの中規模層を中心としているが、転出率は5ha未満層で40%と最も高く、小規模層での米価下落の影響が大きいことを示している。他方、転入者は中規模層に集中しており、最大規模でも10~12.5haにとどまっている。これに対し、現在大規模層を構成する19戸のうち6戸がこの期間に規模拡大を行った農家である。このように、米価変動のなかでも、一定の蓄積を有し規模拡大を行う農家が現れてきていることが注目される。
 以下では、調査農家9戸に即して、規模拡大の動きを観察してみよう。

 2) 農家の特徴と規模拡大過程
 調査農家の家族構成(表3)は3世代の5人家族が5戸、2世代の3人・4人家族が4戸である。経営主年齢は30~40歳代である。経営主年齢が若いことが特徴である。また、労働力は総計で25名(男16名、女9名)であり、1戸当たり2~3名であり、20歳代が9名、40歳代が8名、30歳代が4名で、この世代が中心となっている。経営規模と家族労働力保有には相関は見られない。
 調査農家の現在に至る農地移動状況をみると、№6農家を除き、他の農家はすべて規模拡大を行っている。サンプリングは、2006年の経営規模をもとに生産隊内の規模分布に沿って行ったが、№9ならびに№5が2007年に規模拡大を行い、表示していないが、№10(4.1ha)が離農したため、小規模層の割合が減り、階層は連続的なものになっている。
 2006年時点でみると、9haまでの上層農家5戸がすべて規模拡大を行い、そのうち、№1と№2は水田開発が第一期であるが、線で区切ったように、その水田を返還してより条件の良い水田に借り換えし、さらに拡大している。同じ第一期入植の№8は、第一期の条件の悪い水田に留まっていて本格的な規模拡大に乗り遅れている。№9と№5が規模拡大したため、入地時期による序列は壊れ、小規模農家の拡大と離脱により、全ての農家が7ha以上となっている。
 この規模拡大に際しては、農地は農場有(国有)であるため一般農村でみられる地価支払いはみられないが、井戸などの有益費補償のケースが見受けられる。ただし、利費(借地料)水準が高いことから、それと比較すると負担は重くない。むしろ、既存の井戸の更新費や電気ポンプへの転換費用が高まっている。井戸の水深は当初は17m~20mであったが、地下水位の低下に伴い30mとなりつつある。また、電気モーターの設置には、電線架設工事が必要であり、その費用に1万元以上が投資されている(№1、№2)。
 規模拡大のためには転出跡地の存在が前提となるが、すでにみたように農家の流動性は依然として高く、問題は規模拡大に対応した稲作技術、特に機械化・労働力問題への対応がなされているかにある。そこで、以下では稲作機械化とそれを補完する雇用労働力の確保がいかになされているかを、経営規模差にも注意しながら明らかにしていく。
 
3.稲作機械化と階層差
 以上みてきたような規模拡大は、機械化の進展によって支えられたものであった。以下では、2006年の実態調査にもとづいて、作業別の機械化の動向を跡づけておこう。
 まず、耕起・代掻きについては、耕耘機段階が1980年代中期から90年代半ばまでであり、トラクタ化は最上層の№1が1998年に25馬力を導入し、2004年には40馬力を導入している。ほとんどの農家が2005年までに30馬力ないし25馬力のトラクタを導入しており、25馬力クラスは下層での導入が多い。2006年現在では、トラクタを有しないものは№5のみであり、作業委託によって対応している。
 田植え作業については、稲作への転換ないしは稲作農家としての転入時期が機械化を基本的に規定している。水田への転換が積極的に進展する1993年以前の稲作農家は№1、№2、№8のみであり、№1が最も早く1989年に田植機の導入を図っている。この時期が田植機の導入時期であり、それ以前は吉林省などの水田地帯からの出稼ぎ労働力による請負制が一般的であった。しかし、多くの農家が稲作を開始した1990年代前半にはすでに田植機は普及段階にあり、稲作開始後短い期間で田植機が導入されている。吉林省の延辺で開発された安価な6条植え田植機(1万元)の存在が普及を加速したといえる。入植が遅く規模も小さい№5については、無償で親戚に作業委託をしていた。機械化に伴う育苗ハウスは全戸に導入されており、1990年代末に土レンガ壁を利用したものからビニール製のものに転換したが、これには農場融資の存在が大きかったといえる。2000年代に入り、規模拡大に対応した増棟が行われているが、これは自己資金によっている。
 これに対し、収穫過程については手作業による請負制が遅くまで存続し、汎用型コンバインが徐々に導入される2000年代になってコンバインによる作業委託への転換がみられる。請負賃金は1990年初頭においてはha当たり200元程度の水準であったが、2000年代には500元水準となり、小型コンバインの受託料と拮抗するようになる。以降は、コンバインの導入により、それに代替されることになる。17隊では、2.7m刈り幅の大型汎用コンバインが2003年に3台、2006年に2台導入され、1.5mの小型コンバインも13台導入されている。大型コンバインの受託料は700元、小型のそれは500元となっている。調査農家でも、№1と№7が2005年に、№3が2006年に大型コンバインを導入しており、受託も開始している。2006年現在、委託を行っていないのは規模が小さい№5農家のみであり、ここでは家族労働による手刈りが行われている。
 脱穀作業については、受託料が2000年代初頭のha当たり200元から2006年では500元にまで上昇しているが(№4のケース)、コンバインの普及によりその意味を失いつつある。
 三江平原の大規模稲作は当初、田植え、稲刈り作業を多量の請負制出稼ぎ労働力に依拠するかたちで成立したが、トラクタ耕から始まり、マット式田植機の普及、そしてバインダとの併用から4条刈りコンバイン・汎用型コンバインの導入へと展開してきた。第17隊は全体としての稲作展開が1993年からであり、後発性が生かされるかたちで機械化のキャッチアップが行われたということができる。その過程での機械化と経営規模との関係は明瞭であり、上層農家から機械化が進み、下層農家においても一部手刈りを残すのみで機械委託作業へと転換しているということができる。委託作業料金は比較的高く、大型機械の償還費に充てられるケースも多いといえよう。

 おわりに
 以上、生産隊ならびに9戸の農家のヒヤリングをもとに、三江平原における水田開発の歴史とそこで形成されてきた稲作経営の内実について整理を行ってきた。第17生産隊における全面的な水田化は農場における初発のそれと比較すると10年程度後発のものであった。それ以前の水田化ならびに稲作経営は個別農家の努力に負うところが多く、そこで経営を堅持し得たものがその後の規模拡大の先頭を走ることとなる。その際、稲作技術の定着において招聘農家の役割は重要であった。
 2003年をピークとする米価下落は多くの農家転出をもたらしたが、輸出向けの精米会社の生産基地となることでその打撃は緩和され、稲作そのものの後退は起こらなかった。これをひとつの契機として規模拡大が一般化するが、生産隊の生産的機能は低下し、規模拡大も自助努力によって行われたといってよい。
 この規模拡大に対応して、稲作機械化も並進的に進行していく。事例で示したように、それを牽引したのは上層農家の動きであった。その場合、後発的な水田化という条件を生かして規模拡大と機械化が並進的に行われ、一般的にみられた請負労働依存の大規模経営という経路をほとんど持たずに、機械化一貫体系がおよそ半数の農家で確立したというのが対象生産隊の特徴である。1990年代末の稲作経営と比較すると、機械化水準は格段に高度化しており、大規模経営の技術的基礎は強化されていることは明白である。


同じカテゴリー(友人の大作)の記事画像
「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」で丸屋豊二郎様の発言
同じカテゴリー(友人の大作)の記事
 「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」での専門報告会の発言 (2009-06-24 22:11)
 「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」での吉田進様の発言 (2009-06-24 22:03)
 「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」での坂下明彦様の発言 (2009-06-24 21:59)
 「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」での木下英一様の発言 (2009-06-24 21:56)
 「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」での松野周治様の発言 (2009-06-24 21:54)
 「第2回東北アジア地域協力発展国際会議」で坪谷美欧子様の発言 (2009-06-24 21:44)

Posted by 虎ちゃん at 21:58│Comments(0)友人の大作
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。