2007年01月19日
小肥羊ジャパン―中国飲食業の対日投資の新しいシンボル
ERINA調査研究部客員研究員・中国黒龍江省社会科学院研究員 笪志剛
1999年に「走出去」戦略を打ち出した中国は、経済の高度成長、総合国力の増強、外貨準備高の大幅増加、資源不足の圧力などによって企業の外国投資が次第に増加し、FDI先進国へ邁進しつつある。中国商務部ウェッブサイトのデータによると、2005年の中国ノンバンク対外投資総額は122.6億ドル、2006年前半が64.4億ドル、2006年前半までの累計対外投資総額は634.4億ドルである。
対外投資全体の中で対日投資は出遅れたが、緩やかな成長を見せ、この2、3年はさらに拡大する兆しがある。2005年末までの中国企業(香港をも含む)の対日投資総額は26.87億ドルで、10年前の1995年までの11倍となった。投資分野は製造業、機械、ソフト、電子、サービスなどに及んでいる。2001年にハイアールが三洋電機との共同出資会社を設立して製品を一挙に秋葉原に進出させたこと、上海電気集団がアキヤマ印刷機器製造を買収して日本との技術的な距離を18年間縮小させたこと、広東三九集団が東亜製薬の買収によって医薬製造と流通分野に参入できたことなどの一連の合併・買収案件以来、2006年前半は、無錫尚徳太陽能電力によるMSK買収、中国飲食業チェーン大手の内蒙古小肥羊餐飲連鎖有限公司(以下小肥羊)が日本のIT企業と提携して株式会社小肥羊(シャオフェイヤン)ジャパン(以下「小肥羊ジャパン」)を設立して東京の飲食業に進出したことが話題となった。前者は中国企業の対日投資額最高の3億ドルを記録し、後者は小肥羊というブランドを利用して中国伝統の火鍋(しゃぶしゃぶ)ブームを巻き起こした。
2006年10月21日、筆者は小肥羊ジャパンの日本側パートナーであるウェブクルーを訪ねた。なぜIT企業が小肥羊と提携して飲食業に進出したのか、その経緯、出資形態、中日双方の市場の魅力、可能性、今後の展望、経営戦略などを聞くためである。小肥羊ジャパン投資事業部ディレクター小野田美香氏、投資事業部マネージャ布目由子氏が対応してくれた。
株式会社ウェブグルーは平成11年10月、愛知県春日井市に設立した資本金1,000万円のIT系企業である。平成16年9月東京証券取引所マザーズに株式上場、平成17年12月第三者割り当て増資の実施により41億3,581億円に増資し、ウェブクルー及び連結子会社7社、関連会社5社から構成されている。
小野田氏によれば、ウェブグルー社はこれまでに飲食業の経験はなく、青山浩社長が上海訪問で小肥羊火鍋を食べ、これなら日本人に受けると考え、中国側に打診した。小肥羊側も米国、カナダ、シンガポール、香港、台湾で支店を開設し、数年前から日本での支店開設を視野に入れていた。1年間の訪問と接触を経て、中国側62.5%、日本側37.5%の共同出資で2,500万円を投下し、東京で第1号店を出店することに合意し、2006年7月20日、株式会社小肥羊ジャパンの登記を行い、2006年9月28日、第1号店が東京渋谷センター街にオープンした。
小肥羊は中国人にも在日華人にも馴染みの深いブランドで、4年連続中国飲食業界ランキング100強企業で第2位になっている。7年前に内モンゴルの包頭(パオトウ)から誕生した小さなしゃぶしゃぶ店は、薬味を使わない特色だけでなく、ラム肉を始め数十種類の極上強壮剤香辛料を用い、「医食同源」の健康・美味・自然の享受を根本にし、「品質を本、信頼を至上、偉業を固め、必勝を千年」という企業精神を受け継ぎ、高品質の飲食・サービス提供を通して、わずかな間で中国における最大の民族飲食集団として内外に名声を馳せた。これまでに「中国知名商標」、「中国餐飲百強ランキング2位」、「中国500強企業」、「中国成長企業百強チャンピオン」、「中国有名しゃぶしゃぶ店」、「中国もっとも影響力のある財富企業」など30余りの表彰称号を獲得。現在は完全子会社3社、支社5社、物流配送センター1社、香港、マカオ、台湾を含む直営・特許経営店700以上、傘下店舗を中国32省、直轄市、自治区に展開する飲食界の最大手グループとなっている。 近年は「走出去」に応じ、米国カリフオニア、カナダ・トロント、香港、シンガポールなど海外の支店を続々設立し、国際化展開している。
小肥羊ジャパンの看板となるラム肉には、良質なたんぱく質、多くの必須アミノ酸、鉱物、ビタミンが含まれている。元気を補い、血の気を良くする温を補う品という「本草目録」の記載があり、肉質が繊細で消化に良く、体の免疫力を高め、「医食」を重視する高齢化社会の日本に歓迎されると判断しての進出である。
筆者は二人の熱心な案内により、渋谷センター街の1号店へ向かった。周りに中国、タイ、ベトナム、インドの料理看板が目に映る中、小肥羊の看板が日本で根をおろす気概を示しているかのようである。
入り口脇にあるモンゴル衣装のマネキンが「草の低さに吹かれて見える牛羊」の詩句を思い出させ、内装も民族情緒が際立っている。140人収容の規模は提携への信頼と未来への自信であろうか。今年末までに日本5号店、数年後には日本全体で200店舗の目標を掲げている(原文は[ERINA REPORT]2007vol.74掲載)。
図:東京渋谷センター街にオープンした小肥羊第一号店様子
1999年に「走出去」戦略を打ち出した中国は、経済の高度成長、総合国力の増強、外貨準備高の大幅増加、資源不足の圧力などによって企業の外国投資が次第に増加し、FDI先進国へ邁進しつつある。中国商務部ウェッブサイトのデータによると、2005年の中国ノンバンク対外投資総額は122.6億ドル、2006年前半が64.4億ドル、2006年前半までの累計対外投資総額は634.4億ドルである。
対外投資全体の中で対日投資は出遅れたが、緩やかな成長を見せ、この2、3年はさらに拡大する兆しがある。2005年末までの中国企業(香港をも含む)の対日投資総額は26.87億ドルで、10年前の1995年までの11倍となった。投資分野は製造業、機械、ソフト、電子、サービスなどに及んでいる。2001年にハイアールが三洋電機との共同出資会社を設立して製品を一挙に秋葉原に進出させたこと、上海電気集団がアキヤマ印刷機器製造を買収して日本との技術的な距離を18年間縮小させたこと、広東三九集団が東亜製薬の買収によって医薬製造と流通分野に参入できたことなどの一連の合併・買収案件以来、2006年前半は、無錫尚徳太陽能電力によるMSK買収、中国飲食業チェーン大手の内蒙古小肥羊餐飲連鎖有限公司(以下小肥羊)が日本のIT企業と提携して株式会社小肥羊(シャオフェイヤン)ジャパン(以下「小肥羊ジャパン」)を設立して東京の飲食業に進出したことが話題となった。前者は中国企業の対日投資額最高の3億ドルを記録し、後者は小肥羊というブランドを利用して中国伝統の火鍋(しゃぶしゃぶ)ブームを巻き起こした。
2006年10月21日、筆者は小肥羊ジャパンの日本側パートナーであるウェブクルーを訪ねた。なぜIT企業が小肥羊と提携して飲食業に進出したのか、その経緯、出資形態、中日双方の市場の魅力、可能性、今後の展望、経営戦略などを聞くためである。小肥羊ジャパン投資事業部ディレクター小野田美香氏、投資事業部マネージャ布目由子氏が対応してくれた。
株式会社ウェブグルーは平成11年10月、愛知県春日井市に設立した資本金1,000万円のIT系企業である。平成16年9月東京証券取引所マザーズに株式上場、平成17年12月第三者割り当て増資の実施により41億3,581億円に増資し、ウェブクルー及び連結子会社7社、関連会社5社から構成されている。
小野田氏によれば、ウェブグルー社はこれまでに飲食業の経験はなく、青山浩社長が上海訪問で小肥羊火鍋を食べ、これなら日本人に受けると考え、中国側に打診した。小肥羊側も米国、カナダ、シンガポール、香港、台湾で支店を開設し、数年前から日本での支店開設を視野に入れていた。1年間の訪問と接触を経て、中国側62.5%、日本側37.5%の共同出資で2,500万円を投下し、東京で第1号店を出店することに合意し、2006年7月20日、株式会社小肥羊ジャパンの登記を行い、2006年9月28日、第1号店が東京渋谷センター街にオープンした。
小肥羊は中国人にも在日華人にも馴染みの深いブランドで、4年連続中国飲食業界ランキング100強企業で第2位になっている。7年前に内モンゴルの包頭(パオトウ)から誕生した小さなしゃぶしゃぶ店は、薬味を使わない特色だけでなく、ラム肉を始め数十種類の極上強壮剤香辛料を用い、「医食同源」の健康・美味・自然の享受を根本にし、「品質を本、信頼を至上、偉業を固め、必勝を千年」という企業精神を受け継ぎ、高品質の飲食・サービス提供を通して、わずかな間で中国における最大の民族飲食集団として内外に名声を馳せた。これまでに「中国知名商標」、「中国餐飲百強ランキング2位」、「中国500強企業」、「中国成長企業百強チャンピオン」、「中国有名しゃぶしゃぶ店」、「中国もっとも影響力のある財富企業」など30余りの表彰称号を獲得。現在は完全子会社3社、支社5社、物流配送センター1社、香港、マカオ、台湾を含む直営・特許経営店700以上、傘下店舗を中国32省、直轄市、自治区に展開する飲食界の最大手グループとなっている。 近年は「走出去」に応じ、米国カリフオニア、カナダ・トロント、香港、シンガポールなど海外の支店を続々設立し、国際化展開している。
小肥羊ジャパンの看板となるラム肉には、良質なたんぱく質、多くの必須アミノ酸、鉱物、ビタミンが含まれている。元気を補い、血の気を良くする温を補う品という「本草目録」の記載があり、肉質が繊細で消化に良く、体の免疫力を高め、「医食」を重視する高齢化社会の日本に歓迎されると判断しての進出である。
筆者は二人の熱心な案内により、渋谷センター街の1号店へ向かった。周りに中国、タイ、ベトナム、インドの料理看板が目に映る中、小肥羊の看板が日本で根をおろす気概を示しているかのようである。
入り口脇にあるモンゴル衣装のマネキンが「草の低さに吹かれて見える牛羊」の詩句を思い出させ、内装も民族情緒が際立っている。140人収容の規模は提携への信頼と未来への自信であろうか。今年末までに日本5号店、数年後には日本全体で200店舗の目標を掲げている(原文は[ERINA REPORT]2007vol.74掲載)。
図:東京渋谷センター街にオープンした小肥羊第一号店様子

2007年01月18日
チチハル第二機床(工作機械)工場を訪ねて
ERINA調査研究部客員研究員・中国黒龍江省社会科学院研究員 笪志剛
6月28日、ERINA自主研究事業である「東北振興及び中国対外投資研究」の現地調査で「哈大斉」工業コリドールの中核都市であるチチハル市にあるチチハル第二機床工場を訪問した。
ハルビン・大慶・チチハル工業コリドール(「哈大斉工業回廊」、中国では「走廊」という)は2004年11月、中国中央政府の東北振興戦略に同調して黒龍江省人民政府が打ち出した地方レベルの開発戦略である。具体的には、黒龍江省の省都であるハルビンから石油生産基地である大慶、重工業都市チチハルなどの大都市とその周囲地域を高速交通体系で結び、産業が高度に集積された工業地帯として形成させる構想である。
長期目標としては2020年までの15年間で重度のアルカリ土壌である同地域の921平方キロを開発、5つの都市を軸とし、都市間の交通ルートを中心軸とする。
帯状に広がる哈大斉工業回廊構想は、海外マスコミからも「中国東北旧工業基地振興における重大な戦略配置」と報道され、黒龍江省の小康(ゆとりのある社会)社会を推進するための産業戦略である。
ERINAでは中国の国家政策である東北振興戦略について経過的に調査研究を重ねてきているが、今回はその一環として哈大斉工業回廊を直接訪問した。ここでは、重工業都市であるチチハルの訪問を通じて取材した国有企業のケースを取り上げることとしたい。
6月末近くともなると中国は東北部でも30度を超える真夏日が珍しくない。丹頂鶴の生息地として知られ「鶴城(鶴の市)」の異名を持つ黒龍江省チチハル市は北緯48度に位置しながらも大陸性亜寒帯気候のため夏は暑く、冬はマイナス30度まで下がる。
チチハルはダフール語で「辺境」、「天然牧場」の意味である。清朝の黒龍江将軍府と建国初期の黒龍江省の省都はここに設けられたことがある。地元の住民によると、地形的に坂が少なく、平野に街が広がっていることや国有企業が集中していて労働者員が多いため、チチハル市は省内でも自転車が多いことで有名な都市とのことである。
また、チチハル市は中国建国初期に建設された最初の工業基地で、確固とした工業基盤を持っている都市でもある。膨大な企業群の中でも、当時の周恩来総理から「国宝」と「掌上の玉」と呼ばれた第一大型(重型)機械工場、北満特殊鉄鋼工場、中国工作機械業界でもランキングに入るチチハル第一機床工場と第二機床工場、中国における最大の鉄道貨物車両製造メーカーであるチチハル車両工場、「和平」、「建華」、「華安」といったブランドで知られる軍需産業企業もチチハル経済の支柱となっている。
これらの企業の中で、今回はチチハル第二機床工場を訪問した。同工場は1950年に創立され、当時は旧ソ連からの対中支援プロジェクトの一つとして立ち上げられた。従業員はピーク時に3万人を超えたが、1990年代以後、レイオフを中心とした何回もの企業改革の試練を経て、現時点の従業員は4,000に減った。創立以来、関心を寄せた国家指導者も多く、毛沢東による同工場の模範労働者、馬恒昌の接見を始め、鄧小平、江沢民、そして現政権の国家主席である胡錦涛がそれぞれ訪問している。
2001年以来、中国政府による経済の国家マクロコントロールが奏効し、経済の好転によって、第二機床も再生の時期を迎えた。企業業績は今のところ5年間連続して成長基調を保ち続けている。従業員の給料水準も向上しており、一般の従業員で月額2,000元、技術者従業員は3,000元の給与を得ている。
増収増益によって従業員の勤労意欲も大いに高まっているとのことで、このような景況を維持するため同社では財産権制度の改革に着手した。チチハルには大規模な国有企業が8社あり同社の規模は下位に属しているが、株式制度と財産権制度の改革は最も早くから開始し、現状としては基本的に最終段階に入ったと言える。
具体的には国の優遇政策によって審査の上11億元の財政支出を許可された。企業もそれを条件に有限責任公司に変容し、傘下にあった子会社2社も本社の負担を軽減するためグループから手放し民営化された。
また、中国国家発展銀行による全国機床連盟も発足し、同社もそれによる融資を取り付けることができ、今後の発展のための大きな基盤整備ができたとしている。
国有企業の民営化と外資との提携について、中日双方のさまざまな場面において検討が繰り返されている。同社のケースでは1990年代の不況期には従業員への給料まで支払えないほどの体験をし、必死で外資との提携・買収による企業の再生を模索したが、頼みとする外資からは対応してもらえなかった。日本の大企業に対しても提携の打診をしたが断わられるなど辛酸を舐めたが、現在では中国国家発展銀行による支援と資金導入の結果、企業体質が改善され、自ら関心を表明する外資が増えている状況である。
工場内に設置されている各種設備は2,000台、その中には18メートル高の大型工作機械組立ショップを9ヵ所、大型設備運搬用160トン級のクレーン、面積4,000平方メートル
の恒温ショップと空調の付いた計量センターなどがあり、超大型・重型の工作機械、椴圧機械の生産が可能である。
現在、ドイツ、日本、イタリア、ロシアなどから関連技術を導入し、縦型デジタルフライス盤、横型デジタルフライス盤、椴圧機械など、200種類以上に及ぶ製品を世界40ヵ国へ輸出している。小型デジタル式工作機械の製造現場では、職場の従業員はおおむね300人だが専門的技術を有する従業員が60人しかおらず、他は全て補助従業員であり、連日2シフト制を敷いているがそれでも生産が間に合わない状況を見聞した。
最後に中国の経済発展において大きな関心事となっている省エネルギーの取組みに関して訊ねたところ、工場としては電気、燃料など多くのエネルギーを消耗しており、節約の一環としてこまめなスイッチの開閉などを提唱しているが、技術的にはまだ不十分で今後克服する必要がある、東北振興政策のプロジェクト指定によって、関連の経費が獲得できたことにより省エネの方面にも力を入れたいとの答えがあった。
宣伝はされているが意外と知られていない東北振興政策の実情と未来図がうかがえるような訪問だった(原文は[ERINA REPORT]2006vol.72掲載)。
図:チチハル第二機床(工作機械)工場の庭(構内に飾ってある写真は歴代中央指導者が当該工場を視察された様子)
6月28日、ERINA自主研究事業である「東北振興及び中国対外投資研究」の現地調査で「哈大斉」工業コリドールの中核都市であるチチハル市にあるチチハル第二機床工場を訪問した。
ハルビン・大慶・チチハル工業コリドール(「哈大斉工業回廊」、中国では「走廊」という)は2004年11月、中国中央政府の東北振興戦略に同調して黒龍江省人民政府が打ち出した地方レベルの開発戦略である。具体的には、黒龍江省の省都であるハルビンから石油生産基地である大慶、重工業都市チチハルなどの大都市とその周囲地域を高速交通体系で結び、産業が高度に集積された工業地帯として形成させる構想である。
長期目標としては2020年までの15年間で重度のアルカリ土壌である同地域の921平方キロを開発、5つの都市を軸とし、都市間の交通ルートを中心軸とする。
帯状に広がる哈大斉工業回廊構想は、海外マスコミからも「中国東北旧工業基地振興における重大な戦略配置」と報道され、黒龍江省の小康(ゆとりのある社会)社会を推進するための産業戦略である。
ERINAでは中国の国家政策である東北振興戦略について経過的に調査研究を重ねてきているが、今回はその一環として哈大斉工業回廊を直接訪問した。ここでは、重工業都市であるチチハルの訪問を通じて取材した国有企業のケースを取り上げることとしたい。
6月末近くともなると中国は東北部でも30度を超える真夏日が珍しくない。丹頂鶴の生息地として知られ「鶴城(鶴の市)」の異名を持つ黒龍江省チチハル市は北緯48度に位置しながらも大陸性亜寒帯気候のため夏は暑く、冬はマイナス30度まで下がる。
チチハルはダフール語で「辺境」、「天然牧場」の意味である。清朝の黒龍江将軍府と建国初期の黒龍江省の省都はここに設けられたことがある。地元の住民によると、地形的に坂が少なく、平野に街が広がっていることや国有企業が集中していて労働者員が多いため、チチハル市は省内でも自転車が多いことで有名な都市とのことである。
また、チチハル市は中国建国初期に建設された最初の工業基地で、確固とした工業基盤を持っている都市でもある。膨大な企業群の中でも、当時の周恩来総理から「国宝」と「掌上の玉」と呼ばれた第一大型(重型)機械工場、北満特殊鉄鋼工場、中国工作機械業界でもランキングに入るチチハル第一機床工場と第二機床工場、中国における最大の鉄道貨物車両製造メーカーであるチチハル車両工場、「和平」、「建華」、「華安」といったブランドで知られる軍需産業企業もチチハル経済の支柱となっている。
これらの企業の中で、今回はチチハル第二機床工場を訪問した。同工場は1950年に創立され、当時は旧ソ連からの対中支援プロジェクトの一つとして立ち上げられた。従業員はピーク時に3万人を超えたが、1990年代以後、レイオフを中心とした何回もの企業改革の試練を経て、現時点の従業員は4,000に減った。創立以来、関心を寄せた国家指導者も多く、毛沢東による同工場の模範労働者、馬恒昌の接見を始め、鄧小平、江沢民、そして現政権の国家主席である胡錦涛がそれぞれ訪問している。
2001年以来、中国政府による経済の国家マクロコントロールが奏効し、経済の好転によって、第二機床も再生の時期を迎えた。企業業績は今のところ5年間連続して成長基調を保ち続けている。従業員の給料水準も向上しており、一般の従業員で月額2,000元、技術者従業員は3,000元の給与を得ている。
増収増益によって従業員の勤労意欲も大いに高まっているとのことで、このような景況を維持するため同社では財産権制度の改革に着手した。チチハルには大規模な国有企業が8社あり同社の規模は下位に属しているが、株式制度と財産権制度の改革は最も早くから開始し、現状としては基本的に最終段階に入ったと言える。
具体的には国の優遇政策によって審査の上11億元の財政支出を許可された。企業もそれを条件に有限責任公司に変容し、傘下にあった子会社2社も本社の負担を軽減するためグループから手放し民営化された。
また、中国国家発展銀行による全国機床連盟も発足し、同社もそれによる融資を取り付けることができ、今後の発展のための大きな基盤整備ができたとしている。
国有企業の民営化と外資との提携について、中日双方のさまざまな場面において検討が繰り返されている。同社のケースでは1990年代の不況期には従業員への給料まで支払えないほどの体験をし、必死で外資との提携・買収による企業の再生を模索したが、頼みとする外資からは対応してもらえなかった。日本の大企業に対しても提携の打診をしたが断わられるなど辛酸を舐めたが、現在では中国国家発展銀行による支援と資金導入の結果、企業体質が改善され、自ら関心を表明する外資が増えている状況である。
工場内に設置されている各種設備は2,000台、その中には18メートル高の大型工作機械組立ショップを9ヵ所、大型設備運搬用160トン級のクレーン、面積4,000平方メートル
の恒温ショップと空調の付いた計量センターなどがあり、超大型・重型の工作機械、椴圧機械の生産が可能である。
現在、ドイツ、日本、イタリア、ロシアなどから関連技術を導入し、縦型デジタルフライス盤、横型デジタルフライス盤、椴圧機械など、200種類以上に及ぶ製品を世界40ヵ国へ輸出している。小型デジタル式工作機械の製造現場では、職場の従業員はおおむね300人だが専門的技術を有する従業員が60人しかおらず、他は全て補助従業員であり、連日2シフト制を敷いているがそれでも生産が間に合わない状況を見聞した。
最後に中国の経済発展において大きな関心事となっている省エネルギーの取組みに関して訊ねたところ、工場としては電気、燃料など多くのエネルギーを消耗しており、節約の一環としてこまめなスイッチの開閉などを提唱しているが、技術的にはまだ不十分で今後克服する必要がある、東北振興政策のプロジェクト指定によって、関連の経費が獲得できたことにより省エネの方面にも力を入れたいとの答えがあった。
宣伝はされているが意外と知られていない東北振興政策の実情と未来図がうかがえるような訪問だった(原文は[ERINA REPORT]2006vol.72掲載)。
図:チチハル第二機床(工作機械)工場の庭(構内に飾ってある写真は歴代中央指導者が当該工場を視察された様子)

2007年01月18日
図們江地域への投資を牽引する小島衣料
ERINA調査研究部客員研究員・中国黒龍江省社会科学院研究員 笪志剛
6月22~24日、図們江地域開発の中心地・吉林省琿春を視察した。日頃、黒龍江省社会科学院で勤務する筆者にとっては、ERINAの客員研究員に迎えられて実現した初めての訪問であった。中国の地図を見ても目立たず、東北にポツンとある小さい都市は、自ら足を伸ばし肌で感じてみると、活気とポテンシャルに満ち、辺境の町とは思われないほど魅力ある貿易の町でもあった。
僅か2日間の滞在だったが、琿春市政府の周到な手配で、まず同市の主要税関と「東方における第一の村」防川を見学した。「一目で三国を望め、犬の遠吠えが三国の辺境に伝わる」と言われる防川、ロシア向けの長嶺子税関、北朝鮮向けの圏河税関など、琿春の地政学的な優位性をうかがい知ることができた。しかし、琿春に最も筆者を引き寄せたのは、日本で目にした記事であった。それは、小島衣料が琿春へ進出、新たな日系投資のさざなみが起き、図們江地域開発ブームが再燃するかもしれない、という主旨であった。
小島衣料は、1952年に創業し、1979年に現在の株式会社としてスタートした。1991年、中国の湖北省黄石での美島服装有限会社の設立を契機として、小島衣料は大きな変貌を迎えた。二代目社長の小島正憲氏が、労働集約型の企業としてコストの高い日本における成功の可能性はゼロに近いと判断し、中国など新興地域への移転を加速する新たな戦略を打ち出した。黄石での合弁成功に次いで、上海美旭時装有限公司、上海桜島時装設計有限公司、友島上海紡績品有限公司、上海偉馳諮詢有限公司、株式会社ウィズビジネスサポートを設立した。
さらに筆者の目を引いたのが、2005年末の図們江地域における現地法人と系列工場の設立投資案件だった。地元の中国マス・メディアが東北振興政策の進展と外資の北上の兆しとして取り上げ、NHKなど日本のメディアも大きく報道した。報道では、同社が琿春の地政的な優位性、安価な土地と労働力に着目し、特に地元の日本語人材の存在を重視していると伝えている。「琿春は将来、大連と肩を並べ、中国東北地域のもっとも発展できる都市だ」と小島社長が自らそのポテンシャルを語っている。
琿春市辺境経済合作区2号区創業大街合作区にある標準工場群の小島衣料の現地工場を訪れた。工場に入ると、電話とFAXが鳴り続いている。入り口にある対外担当、事務、総務などのエリアの向こうに、職場の清潔で整然とした従業員の作業場面が目に入る。日本留学の経験を持ち、琿春市の外資系企業誘致局長を兼任している全成哲総経理の紹介によると、第1期の総投資額は150万ドル。5つの工場を開設する予定で、すでにそのうち3工場がオープンし、4番目の建設も着手し始めたところである。すべてが完成すると、生産・加工能力は年間120万枚の規模となる。現在の従業員数は367名である。
(写真1)小島衣料琿春工場の玄関
琿春のポテンシャルを望みながら、同社は琿春-ザルビノ-新潟を結ぶ日本海横断航路にも格別の関心と期待を寄せている。「わが社にとっては納期と物流がとても重要だ。物流は速さ。現在、完成品は大連経由で日本に送っているが、図們江輸送ルートが開通すれば、4~5日かかっているものを1~2日まで短縮できる。日本だけでなく、欧米への転送も早くなるはずだ」。図們江輸送ルートを巡る第2回琿春シンポジウムで小島社長はこう発言した。図們江輸送回廊が開通次第、第2期500万ドルの追加投資を行い、従業員3,000人、年間生産能力600万枚の規模を目指すという。
琿春へは韓国、日本、ロシアなど北東アジア周辺国を中心に外資が参入している。地元の朝鮮族の労働力と人材優勢を狙って韓国企業が24社進出し、日本企業は韓国に次いで12社が参入した(表1)。「小島衣料の投資は象徴的なものだ。今度この地を訪問するときには、中ロ朝三国国境地域の内陸物流と港湾地域開発プロジェクトの実施によって、図們江ルートは(ちいさな)堀も大きな道に変わっていることだろう」と、古い友達でもある琿春市の蔡旭陽副市長は近い将来の琿春市の対外合作を語った(原文は[ERINA REPORT]2006vol.72掲載)。
図:小島衣料琿春工場の内部の様子

2007年01月18日
長春の日系自動車工場-トヨタ長春工場を中心に-
ERINA調査研究部客員研究員・中国黒龍江省社会科学院研究員 笪志剛
東北三省で緑の最も多い都市・長春は、トウモロコシと大豆の都市として全国に知れ渡るだけでなく、光電子や自動車産業も有名だ。特に自動車産業は長春市の基幹産業となり、2003年の自動車関連工業生産高1,200億元は、同市の一定規模工業値全体の80%を占めている。自動車産業関連従業員は15万人、国内自動車販売のシェアが14.6%で、700社が3,000種以上の部品を製造しており、自動車開発、生産、販売の中心となりつつある。東北三省における長春市の自動車産業の優勢が顕著であり、特に東北振興政策を遂行する過程で、長春市の自動車産業を発展させることはすでに吉林省政府の戦略的な配置となっている。
長春にある中国第一汽車集団公司(一汽/FAW)は、中国自動車業界の中でも最大規模で最多車種を揃える生産・開発基地であり、生産量も中国全体の5分の1を占めている。今後4年間で、同公司は年間生産200万台、内120万台を長春及び周辺で製造し、長春は世界5位の自動車生産都市となると見込んでいる。
さすがは自動車都市、長春では至る所に自動車、自動車関連の合弁、独資外資系企業が並んでいる。2006年5月、長春で開催された「日中経済協力会議-於吉林」に参加して、半年ぶりの長春にこのような印象を持ち、その後、現地の吉林大学の友人の斡旋で、長春に進出したいくつかの日系自動車工場を見学して、そのイメージをさらに深くした。
5月24日、吉林大学東北アジア研究院政治学研究所副所長の沈海涛氏の手配で、私たちは一汽とトヨタ自動車が合弁で創設した一汽豊田(長春)発動機有限公司と長春豊越公司を見学した。また、この見学の前には、会議の手配で日中東北開発協会訪中団とともに、長春経済技術開発区にある光洋精工、伊藤忠商事、一汽富奥汽車零部件有限公司が提携する一汽光洋転向装置有限公司を見学した。
一汽光洋は1996年12月創設、資本金1,400万ドル、総投資額2,995万ドルで、中日双方がそれぞれ50%を出資した。1997年12月に工場が竣工し、翌年8月に開業式を行ったが、2002年にはさらに40%増築した。現在の従業員数は285人。主要製品は乗用車用のトランスミッション及びステアリングで、年間生産量は32万セット。主にFAW、FAW-VW、東風自動車、天津一汽などの自動車メーカーに部品を提供する。清潔な職場、真剣に作業している従業員、日本式管理など、すばらしい面を見学で確認できた。
一汽豊田(長春)発動機公司の工場も長春経済技術開発区内にあり、広々としたエリアは衝撃的でさえある。案内役の孫守貴・総務課長の紹介によると、同工場の敷地面積は297,995平方メートルで、事務所、工場、鋳造エリアを分けるほか、6万平方メートルの部品供給のアルミ工場と13万平方メートルの空地(5年以内で開発予定)を持っている。該当工場は一汽とトヨタの間で2002年に締結した戦略的な合意によるもので、総投資額15億元、主要製品は新型V6エンジンであり、年生産能力13万台で、合弁期限は30年となっている。工場は2003年9月1日に着工し、2003年12月29日に中国国家発展改革委員会による認可を得て、2004年3月25日に会社が正式に成立し、2004年12月17日にV6エンジンのラインオフが行われた。このような流れから判断すると、この投資は典型的な「事実婚」であり、政治的な要素が大きい。さらに聞くと、当時の吉林省政府と長春市政府は、生産量世界2位、業界一の効率性、管理技術に優れたトヨタをどうしても誘致するため、他省に提携プロジェクトを移さないように長春に本社のある一汽に圧力をかけたということがあったそうだ。
周辺の環境、労働力の資質、物流などの面から考えると、長春は理想的な選択肢とは言えない。コストコントロールを考えても、天津一汽豊田や広州豊田とは大きな距離がある。しかし、長春市政府は全力で700戸余りの農家を移転し、土地整備費を一切請求しなかった。また、部品供給面で日本側の不安を払拭し、生産を優先して手続きを後にするなど、諸条件で最大限の優遇政策を提供した。
トヨタの投資は開発区及び市政府のバックアップを得て、工場の主体建物は一年で竣工し、設備施工を経て一年半でオープンした。2004年末のエンジン生産ラインオフ後、2005年7月から8月にかけて、正式生産が始まった。2005年販売台数は45,000台余り、販売額は20億元で、利益は3,800万元となった。2006年は生産9万台、利益8,000万元になる見込みである。2~3年の過渡期を経て黒字が出る普通の自動車エンジン工場と違い、一汽豊田の長春工場はすぐに黒字になる珍しいケースと言える。これは一汽本社、四川トヨタ本社、在中国トヨタ各社の販売マーケット戦略の奏功と考えられる。コスト管理と削減により、同社は12億5,000万元の経費予算の内11億5,000万元しか使わず、ちょうど1億元を節約した。
案内役の孫総務課長によると、同社は製造部、管理部、財務部、総務部と人事課、生産課、総務課など4部10課を設置している。トヨタ側は駐在員を8人派遣し、それぞれ製造部長、管理部長など重要なポストに就かせている。一汽側は11人の管理職を出した。2006年3月時点で従業員数は755人、その内、製造部、技術部、管理部がそれぞれ583人、76人、70人であり、同社の製造と技術の実力と重要性が際立っている。販売好調のため2005年10月から2シフト生産体制に変わり、1日約400台、月に約8,000台のエンジンを生産する。
トヨタの新型V6エンジンは環境に優しく、二酸化炭素の排出基準もユーロIVレベルを満たしている。専有技術であるVVT技術を導入し、軽くて騒音と燃料消費の低いメリットを持っている。こうしたハイテクエンジンの工場だが、職場全体を見渡すと、トヨタの日本国内の自動化された職場と少し違っている。現地の安い人件費と中国国情を配慮し、市場の変化と顧客のニーズに応じた多品種、小規模の方針を導入しながら、必ずしも自動化にこだわってはいないということが印象的だった。現在、同社の製品は主にクラウン(皇冠)2.5L、同3.0L、レイツ(鋭志/マークX)、大赤旗(HG3)3.0Lに提供しているが、また別の型に提供する可能性がある。完成車は3年余りで淘汰されるが、エンジンは10年ごとに更新される。トヨタは心臓であるエンジンから周辺部品まで、改善と更新の努力を続けている。
今後の発展に関して、一汽豊田(長春)発動機有限公司は、従業員の力を合わせることを重視する一方、基礎からスタッフの養成にも力を注ぐ。トヨタの企業管理パターンを導入するなど、管理過程に日本の企業文化を融合している。しかし、雇用の多様化に伴い人員流動化の問題にも直面している。例えば、天津一汽豊田工場は欧米系の自動車会社より給与が安いため、一部の人員が引き抜かれた。天津と広州豊田では中堅スタッフの引き抜きも問題となったこともある。一汽豊田(長春)には従業員の引き抜きはあっても中堅スタッフの辞職はめったにない。しかし今後の課題として重視する必要があろう。人材養成として、同社は従業員へのエンジン組立技能訓練のほかに、日本を始め国内外への研修を実施し、2005年までに113人が日本、瀋陽、大連などで研修を重ねている。
東北振興の進展による外資進出をめぐり、孫課長は自分なりの見解を説明してくれた。それによると、現在、中国中央政府は自動車関連のプロジェクトに対して15億元の最低投資制限を打ち出しただけでなく、ハイテク技術の有無も要求されている。一汽はトヨタとの合作を進めるため、巨額の一汽豊田天津の合弁を辞さなった。それによりトヨタと運命共同体となり、次の大きなプロジェクトの土台を築いた。それを促すために長春市政府は特別の優遇政策と誠心誠意の誘致運動を行った。一汽豊田(長春)発動機の早期着工、無事操業は、地元各級政府の積極的な姿勢が実を結んだものと評価された。
長春豊越公司では、完成車の明るい光景が目に入った。開発区にあるエンジン工場と違って、同社は一汽本社2号門の入り口近くに位置し、自動車工場の中にある自動車会社のイメージが強い。同社の前身は2003年創立した長春一汽豊越汽車有限会社。同社は2005年7月、四川豊田汽車有限公司の資産購入によって双方それぞれ50%の株を持つ四川一汽豊田汽車有限公司(SFTM)が設立され、その子会社となった。従業員は400人余り。同社はSUV・ランドクルーザー10,000台、ハイブリッドカー・プリウス3,000台の年間生産能力を持ち、稼動以来、すでにランドクルーザー10,000台余りを生産した。
熱心に案内してくれた同社の畢文鋒・人事課長によると、プリウスはトヨタの最新技術を結集した新鋭車種で、価格はまだ中の上だが、中国市民の消費能力の増加によってさまざまなメリットを享受できることになろう。日本の友人の話では、プリウスの海外生産は初めで、工場見学もなかなか難しいとのことであり、今回の見学とヒアリングは収穫が大きかった。
最近の報道によると、低燃費のハイブリッドカーがガソリン価格上昇を背景に世界で需要を伸ばし、増産に動いている。主力のプリウスの5割増産を始め、2010年代初頭にはハイブリッドカーの生産を100万台まで増やす計画を打ち出した。また中国では現地生産システムの進化など日本国内では出来ない変革が起き、トヨタの海外自動車生産・販売の新たな展開を牽引するものと注目されている。畢課長の勧めもあってか、一日も早くプリウスを入手するのが筆者の新たな夢となっている。
トヨタを始め日系企業の長春投資を考察すると、旧工業基地の振興策の実施、及び各省独自の地域発展戦略によって、外資の中国における北上スピードが加速され、東北への認識も次第に深まってきたのが分かる。外資の進出により、東北地域における自動車産業や設備製造業、石油化学などにおける優位性も次第に顕在化してくるであろう。長春が自動車産業を増大・増強させるのは歴史の必然であり、交通・運輸・設備製造工業体系を構築するとことはもちろん、国際的な自動車都市であるデトロイトに学び、長春はさらに走行機械工業基地を構築し、自動車工業の優位性を強化する必要があろう。V6エンジン工場、ランドクルーザー、プリウス、光洋ステアリングシステムなど、日系自動車企業の相次ぐ進出でこうした明るいビジョンが描かれていくことを、中国東北出身の一研究者として大いに期待している(原文は[ERINA REPORT]2007vol.73掲載)。
図:プリウスの説明用車両
